1988年ソウルオリンピックを開催させた「花畑を買い占めた奇策」…下馬評は名古屋有利も奇跡の勝利、その裏には現代グループ創業者がいた!

1988年「世界はソウルへ、ソウルは世界へ」というスローガンで開催されたソウルオリンピック。名古屋での開催が有力視されていたその大会で逆転招致に導いたのは、当時韓国の最大財閥で現在も世界的な有名企業である現代グループの創始者だった。

『秘密資料で読み解く 激動の韓国政治史』より一部を抜粋・再構成し、解説する。

経済界主導の招致活動

ソウルオリンピック招致は、韓国の経済発展と潜在力を世界に誇示し、ソ連、中国など社会主義諸国や非同盟諸国との外交関係樹立のうえで絶好の機会となった。しかし、当時の韓国はどう頑張ってもオリンピックの開催は不可能と関係者は内心思っており、すでに名乗り出ている名古屋市の競争相手にもなれないという見方が圧倒的だった。

それを逆転させたのが、現代グループ創業者・鄭周永(チョン・ジュヨン)の奇抜な作戦だ。

1981年5月、現代グループ会長の鄭周永のところに文教部体育局長が「オリンピック招致民間推進委員長辞令状」を持ってやってきた。事前にそのような話は一切なかった。話を聞いてみると、名古屋市と争って勝てるわけがないのに、大統領からの指示を受け、オリンピック招致関係閣僚会議で官僚たちの知恵として浮かんだのが民間への丸投げだった。

政府が恥をかかないような方法として、本来ならば招致都市のソウル市長が引き受けるべき招致推進委員長を民間経済人にやってもらい責任逃れしようという画策だった。

提案したという李奎浩(イ・ギュホ)文相は、「無から有を創造し、強靭な精神力と機知によって現代を世界的な企業に成長させた底力と、海外において数々の神話を残し、韓国企業の位相を高めた能力を高く評価した」と称賛の言葉を並べ、鄭周永にオリンピック招致民間推進委員長を依頼した。

当時、鄭周永は全国経済人連合会長職にあったので、民間経済人団体の長の役割として引き受けた。

チャレンジ精神が旺盛な鄭周永は、これはやりがいのある仕事だとひそかに考えながら、作戦を練った。オリンピック招致に対する政府の意思や経過、そして否定的な雰囲気などもおおよそ分かってはいたが、一度関係者の意見を聞いてみようと会議を開いた。

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オリンピックを開催すると国家財政が破綻する

ソウルオリンピック招致民間推進委員会は、委員長のもとに全閣僚が委員に名を連ねていた。しかし、会議に出席した閣僚は文相だけで、IOC(国際オリンピック委員会)委員も欠席、ソウル市は局長1人の出席だった。これではやる気があるのかと、鄭委員長は憤慨する。

9月20日から始まる西ドイツ・バーデンバーデンでのオリンピック招致活動期間に開設される展示場で使用する広報映画、広報冊子の準備を急がねばならない。そのための予算は約1億8000万ウォン(約5700万円)が必要だ。

当然用意すべきソウル市は予算がないと言い、国務総理に追加予算を要請しても、当時の南悳祐(ナム・ドグ)総理はオリンピックを開催すると国家財政が破綻すると反対しているので無理だという話だった。

鄭周永は政府の意思と、推進委員会委員であるのに会議にも出席しない閣僚たちが果たして協力するのかを文相に確認した。文相は大統領の指示だし、特に兪学聖(ユ・ハクソン)安企部長は積極的に支援すると約束した。

8000億ウォン(約2553億円)の経費を必要とすると言われたオリンピック開催は、当時の韓国の財政事情では負担できる金額ではない。しかし、鄭周永は違う意見を持っていた。やり方次第では可能だと考え、与えられたチャンスを活かして、やってみようということになった。

たとえば、競技場や宿泊所などは民間施設を動員して解決する。また、大学や各都市の公設競技場を規格に合わせて改修して活用する。選手村は民間資本でマンションを建築して前もって販売し、オリンピック期間中は選手に使用してもらう。プレスセンターやマスコミ関係者の宿泊所などは、大企業がビルを新築して、オリンピック関係で先に使用し、後で企業が使用するなどの発想が浮かんだ。

さらに世界のマーケットで韓国企業が取引している各国企業を通じて、その国のIOC委員との接触を図る。まず安企部長の支援を取りつけた。可能性のない無駄なことに時間と金を費やすだけと消極的だった企業の動員は、安企部長が責任を持ってやると確約した。

海外に出ている企業が企業活動の一環として誠心誠意行動すれば、オリンピック招致に必要な82人のIOC委員の過半数の票の確保は可能だと鄭周永は確信した。

政府予算が時間的に間に合わないのなら、翌年の予算で弁済するという条件で、とりあえず鄭周永が1億8000万ウォンを立て替えて映画製作などの準備を進めた。

鄭周永は、現代のフランクフルト支店に連絡し、すべての職員は家族とともにIOC総会が開催されるバーデンバーデンに移動するよう指示。現地事務所や賃貸住宅を手配し、関連国へのロビー活動や各種支援に対する万端の準備を命じた。

オリンピック招致は不可能と躊躇する一部の企業も安企部の指示でバーデンバーデンに集まることになった。当時は安企部の威力は大変なものだった。