単一の物語に他者を閉じ込めない
――現実の歴史を背景に小説を書くことについて、お二人それぞれこだわりはありますか?
小川 僕が小説を書く上での一番のモチベーションになっているのは、他者について考えたいという感情なんです。もともとSFでデビューしたのも、他者のことを一番考えられるジャンルだと思ったからで……。自分とはまったく違う価値観や倫理体系を持つ人について考えたいという思いは、小説を書く上で大事にしていますね。
歴史に行き着いたのは、単純に、それまで未来に向いていた矢印が過去に向いただけです。戦前・戦中・戦後すぐ、いずれも今とはまったく違う価値観や倫理観、科学技術や社会システムのもとで生きていた人たちがいたわけで。仮に自分がその場にいたら何ができたか、どうすれば七十年以上前の戦争を自分に関係するものとして見られるか、ということを考えるのが、『地図と拳』を書く上での大きなテーマでした。
そのためにはまず、当時の人がこういう価値観のもとでこういうことを考えて生きていたという部分を描こう、と。現代の視点から眺めると、昔の人は野蛮で愚かだったという結論になってしまいがちですが、それでは近代史について考えることはできませんから。『虚史のリズム』でも、戦後の時代の価値観が示されていて、そこはすごく共感しました。
奥泉 そうですね。基本的に他者のことはわからないわけです。他人のことは究極的にはわからない。しかし人間には想像力がある。想像力を通じて他者のことを考えることができる。想像力を使って過去の人たちのことを考えられること、彼らがどのように考え行動したかを言わば共感的に描けることが、小説の最大の強みなんですよね。
ただ同時にそこには、自分が持つ単純な物語に他者を閉じ込めてしまう危険性がたえず存在しています。特攻隊が一番わかりやすい例だけど、パターンの中で「泣ける物語」を書くことはいくらでもできてしまう。でも、特攻隊をめぐる人々の思いや行動は、単純な物語では捉えられない。一方で我々はどうやっても物語的にしか世界を認識できず、他者もまた捉えることができないという難問がある。とすれば、物語そのものへの批評的な目を持つことを含め、いかなる物語でもって他者を描くべきなのか、たえず考えなくてはならない。
これには簡単な答えがあるわけではない。しかし、少なくとも言えるのは、単一の視点で他者や事象を捉えてはならないということだと思います。複数の物語をたえず用意する。いくつもの可能な物語のせめぎ合いの中で世界を構築していく作業しかないと思うんです。よく使われる言葉だと、「多層性」ということになるんだけれども。単純と言えば単純なことですが、それは何度でも言いたい。戦争にまつわる出来事は単一の物語に閉じ込められてしまう危険性が高いし、これからきっとどんどんそうなっていくんだと予感します。
小川 そうなると危険ですよね。特攻隊の感動的な話や、たとえば忠臣蔵もそうかもしれませんが、僕らの中に入ってきやすい物語化がなされています。なぜ入ってきやすいかというと、その時代に決断を下した人々の考え方や価値観を現代の僕らの視点で捉えているからだと思うんですよね。だからそうならないように、自分の物語に閉じ込めないように注意しないといけない。
奥泉 まったくそうですね。あと小川さんの小説で、方法として注目したのは、史実と虚構との関係性ですね。『地図と拳』で登場する李家鎮(リージャジェン)というのは架空の街です。加えて主要登場人物は全員フィクショナルな人物。これはひとつの方法ですよね。遠景では実在の人物も出てくるんだけど、台詞があったり内面が描かれたりする人物は、徹底してフィクショナル。僕の小説も基本的にそうなんです。今までの小説すべてそうだと言っていい。そのへんはどうですか、意識していますか。
小川 もちろん、すごく意識しています。歴史小説にはいろんな役割があって、実在の人物の再解釈もそのひとつですよね。史料にはその人の内面が描かれていないので、内面を組み立てるという仕事も小説家にはある。なぜこういう決断をしたのか、なぜこういう行動をとったのか。ただ、今のところ僕は、歴史上の人物の再解釈ではなく、近代史そのもの――もっと抽象的な、戦争って何だったんだろう、近代って何だろう、天皇って何だろうとか、そういうところ――のほうに興味があるので、再解釈ゲームには参加していません。
――『ゲームの王国』のポル・ポトは再解釈しているんじゃないですか?
小川 ポル・ポトについては、彼を扱ったフィクションがそもそも存在しないので、再解釈も何もないというか(笑)。当時、カンボジアがポル・ポトについての小説を書ける状況になくて、実際に書かれていなかったということもあるし、日本人にとってポル・ポトがすごく遠い人物だということもあります。まあ、『ゲームの王国』の中でポル・ポトはそんなに主要登場人物じゃないんですけどね。要するに、僕は別に日本の史料研究とか歴史学を前進させようとはしてないと、そういう話です。だからむしろ、実在の人物については、自分の想像力を守るために意図して出していません。出したほうが面白くなるかなと思うときもありますけど。奥泉さんはどうですか?
奥泉 いわゆる歴史小説については、書くだけの時間が今後に残されているかどうかわからないんだけれども、ひとつの課題と捉えています。日本の近代小説にその流れはあって、鴎外とか、大岡昇平とか、多くの作家が晩年に歴史小説にチャレンジしている。吉村昭さんもやっていますね。評伝というのはジャンルとして確立されていますが、それを含めて、歴史小説をどう書くのか、書けるのか、まだ掴めていなくて、やりたいんだけど、うーん、でもなあ……(笑)。「このとき甘粕はこう思った」とかって、やっぱり書きづらいじゃない。
小川 これまでフィクションにおいて、たくさんの甘粕像が描かれてきているわけですよね。半端にやると、みんなが描く甘粕とちょっとイメージが違うとか、そういうことにもなりかねないし……。
奥泉 方法論をずっと模索中なんです。
小川 「この人ってきっとこうだったんだろうな」と思える、二次創作的な妄想力がないと楽しく書けない気がします。近現代史上の人物って、「何月何日にどこにいた」「何年に昇進した」という記録がすべて残っているわけです。小説でその人物を描くとしたら、絶対に通らなければならないチェックポイントをクリアしながら、その間でひとつの人格を作っていく、解釈する、という試みになると思うんですけど、今のところ僕にはちょっと難しそうですね。できるならやってみたいですけど。
奥泉 近代史への関心と言えば、小川さんの関心の中心はどのあたりになるのかな。ポル・ポトを書いたり、満州を書いたりするのは、トータルな近代史への関心とはちょっと異なるのかなと。
小川 たぶん、もともとはユートピアに関心があるのだと思います。だから、共産党にも興味があって。うちの祖父が元共産党員でバリバリ活動していて、治安維持法か何かで逮捕されているんです。それとはあんまり関係ないのかもしれないけど、頭のいい人が集まって、「こうすれば理想の国ができるんじゃないか」と考えたことがなぜ必ず失敗するのかということは、昔から考えていますね。その問いが、満州やカンボジアを書くことにつながっているのかな。
奥泉 なるほど。僕は、とにかく太平洋戦争への関心がずっと中心にあるんです。わかりやすく言うと、どうしてああいう悲惨な戦争をしてしまったのか、そこに尽きる。でもこの関心は、小説家であることとは直接関係なくて――というのも変ですが、太平洋戦争のことを小説で書かねばならないと思っているわけではない、少なくともそれを書くために小説を書いているわけではないんです。しかしやっぱり自分の関心事だから、書くとそれが出てきてしまう。僕は太平洋戦争を中心に据えて、近代史を考えることをやってきたんですが、今回はそこから戦後のことを考えてみました。
僕の世代から見ると、戦後の占領期は謎に満ちています。むしろ戦前、戦中のほうが理解しやすい感じがある。占領期というのは、よくわからない不思議な時代なんですよね。その不思議さを小説中で表現したいという思いも、今回は特にあったんだけれども。でも繰り返しになるけれど、それは変な言い方ですが、小説の内側から出てきた関心ではなくて、もっと違うことを書いてもいいはずなんです。しかし結局は自分の関心事なので、それを書くしかないということになっちゃう(笑)。
小川 僕は一九八六年生まれなんですが、冷戦とか高度経済成長とか、自分が生まれてくる十年ぐらい前、親が学生だった頃に体験した時代が自分にとっては謎で、興味がありますね。それとちょっと似ているのかもしれません。僕の場合はむしろ、戦中や戦後のほうが理解しやすい気がします。
――奥泉さんは一九五六年生まれなので、占領期(一九四五~一九五二年)との距離感は同じくらいですね。
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歴史は変えられるか?
小川 そういえば『虚史のリズム』には、国家機密である「K文書」とからんで、「第一の書物」「第二の書物」という、未来予知に通じるモチーフが出てきますよね。これは一九九八年に出た奥泉さんの『グランド・ミステリー』のメインモチーフですが、実は僕の『地図と拳』にも、未来予知みたいなものが出てくるんです。
――たしか『地図と拳』を書いた時点では、小川さんは『グランド・ミステリー』を読んでなかったんですよね。
小川 読んでいませんでした。大森さんに『地図と拳』の構想を話したとき、『グランド・ミステリー』を読んだほうがいいよと二回ぐらい言われて(笑)。でも、読んだら逆に書きづらくなりそうだなと……。
――『地図と拳』にも、未来を知っているかのような人物が出てきて、研究所が創設されて戦争を回避しようと努力するんだけど、結局歴史のコースは変えられない。あたかも『グランド・ミステリー』にオマージュを捧げたかのようにも見えました。
小川 奥泉さんの作品は以前からかなり読んでいて、特に『ノヴァーリスの引用』が大好きで、何度も僕なりに『ノヴァーリスの引用』をやろうと思って失敗しているんですよ(笑)。その経験があったので、これは読まないほうがいいなと思って。
――さすが、クリストファー・プリーストの『奇術師』を読まずに「魔術師」を書いた小川哲だけのことはあるなと思いました(笑)。
奥泉 読んでなかったんだ。
小川 理屈でつくっていくと同じ答えになるということですね(笑)。
――プリーストにも、『双生児』という第二次世界大戦を題材にした長編があります。これは双子のどちらが生きているかで歴史が二重化するというアイデアで、『グランド・ミステリー』と同じようなことをイギリスでやっている。二〇〇二年の小説なので、『双生児』のほうがあとですが。
小川 僕、いまだにプリーストは一冊も読んでいません。もう怖くて(笑)。絶対面白いのはわかっているんだけど、今後、自分が書くときにプリーストがちらつくのが嫌だなと。
奥泉 影響はむしろ受けたほうがいいと思うけどね(笑)。でもSFだったら、同じアイデアになっちゃうことはありうるか。そうするとたしかにやりづらいですね。
小川 SFの場合は同じアイデアで書かれていて、どっちも名作という例もいっぱいあるので、全く同じ作品には絶対ならないとは思うんですけど……。奥泉さんの「第一の書物」「第二の書物」というSF的な装置は、どんなかたちで生まれて、どんな意図で使われているものなんですか。
奥泉 『グランド・ミステリー』の出発点は、「戦時中という大量死の時代に、ひとりの人間の死の意味があるのか」という問いでした。そこからミステリーを構想していった。「第一の書物」「第二の書物」の二つの現実のモチーフは、書いている途中で出てきたもので、SFのアイデアとしてはとくに目新しいものではないけれど、これを導入することで、小説に膨らみと推進力が生じて、それに導かれるまま進んでいったという感じですね。そこから「個人は歴史を変え得るか」という主題も必然的に生じましたが、小説世界を多層化、重層化するための装置の面がむしろ強かったと思います。
今回の『虚史のリズム』は、その続編でもあるわけです。さっきの破綻の話で言うと、『グランド・ミステリー』の一番の破綻――というほどではないけれど、問題が残ったのは、志津子という女性なんですね。彼女は非常に大きい役割を小説中で持っているんだけど、しかし、『グランド・ミステリー』ではその後あまり出てこなくなって、彼女はいったいどうしたんだという疑問があったわけ。だから志津子に決着をつけることが、今回の小説を書く動機のひとつでした。
そうして書きはじめたら、志津子は少なくとも思想的には「歴史は変え得る」という立場に立つ強烈なキャラクターになっていった。それが書きたかったのかもしれませんね。歴史は改変できる。より良き世界の構築は可能である。そうした肯定的理念に己を賭ける人物として、彼女を描くことになった。だから極端なことを言うと、『虚史のリズム』は、彼女のために書かれた小説なんです。さらに、その思想を受け継ぐかもしれない澄江という人物も出てくる。『グランド・ミステリー』では、『虚史のリズム』で「K文書」を遺した人として登場する貴藤大佐が歴史の改変に挑戦して失敗する。今回は、非常にかすかで淡い線なんだけど、歴史の流れに抗していく可能性の芽が未来に残された。その点が『グランド・ミステリー』と『虚史のリズム』の大きな違いかもしれませんね。
小川 歴史小説の一番の弱点って――そう言っていいのかどうかわかりませんけど――オチがわかっていることじゃないですか。第二次世界大戦の話を僕がどれだけサスペンス味たっぷりに書いたところで、最後に日本が負けることはみんな知っているわけです。だから、読者からすると一定のストレスがあるかもしれない。つまり、出てくるやつは全員負けに向かって一直線に動いているという。
奥泉 満州国の建設も失敗に終わると。
小川 そう、失敗するのにいろいろ頑張っているわけで、「無駄だからやめろよ」と思いながら読む人もいるかな、と想像しました。『地図と拳』に予知のモチーフを出したのは、読者と同じような視点を持った人物を入れたかったからです。つまり、近代史を扱うに当たって、読者のツッコミを作中で代弁してくれる人物ですね。「そんなことしてると戦争に負けるよ」と言ってくれる人がいたほうが、負けるというオチがわかっている小説を読む上でストレスが幾分か軽減されるかなと。実際問題として、戦争に負けることを知っていた人物は、戦時中においてもそれなりの数でいたわけじゃないですか。だから、そういう人物を中心キャラクターとして動かしたいという欲求が、僕の場合はありましたね。
近代史を扱う小説の中に、予知や繰り返される人生という要素を入れるとき、それが作品のテーマを深める部分と、単純に読者の視点として機能する部分と、両方を持ち得るのかなと思っています。だから『虚史のリズム』にもそういうモチーフが出てくるのかなと想像していました。
奥泉 なるほどね。しかし、そうした仕組みは単純に面白いよね(笑)。僕は、SFでは時間ものが一番好きですね。
小川 たしかに戦後が舞台の『虚史のリズム』でも、現代からやってきたと思しき久良々が終盤で登場したりもしましたね。
奥泉 そうそう。ここまで書き進めてきたら、現代を生きている人間が出てくるのも全然ありだなと(笑)。なんせ主人公が鼠になっちゃった世界ですからね。これは『神器』でも同じことをやっています。今回の久良々(くらら)ははるかに頭がいいんですが(笑)。
小川 夢か現実かもわからないわけです。はたまた一方で「第一の書物」「第二の書物」の未来予知も、催眠術で説明できてしまうかもしれない。
奥泉 その可能性はどうしても残したくなる。リアリズムのラインもぎりぎり残したい。志津子も最後まで「第一の書物」のことを、二つの現実の存在を認めない。少なくとも認めるとは言わない。
小川 僕の小説はよくインテリの登場人物が多過ぎると言われますけど、たぶん奥泉さんの作品のほうがインテリが多いですよね(笑)。
――でも、愛敬あるバカも出てきて、バランスがとれている。
小川 いや、とはいえ石目もけっこう鋭いんですよ、戦争について語らせると。