1万2000年間保存されてきた水気のある「プルプルした脳」の謎を解明 / Credit:Alexandra L. Morton-Hayward
通常生物の軟組織は、死後真っ先に分解され長期間残ることはありません。
中でも脳は非常に柔らかく脆い臓器のため、考古学的にもっとも残りにくい部分だと考える人は多いでしょう
ところが考古学において、脳は意外と保存されて残っていることが多い臓器と言われているのです。
そこで英国オックスフォード大学(University of Oxford)は、脳が発見されたという考古学の事例を調査。
結果、もっとも長く保存されていた脳は1万2000年前のものであり、さらにそれは乾燥状態や凍結状態ではなく、弾力のある「プルプルした状態」だったことがわかりました。
生物の軟組織が腐らないよう保存されるためには、乾燥状態や冷凍状態にするのが有効と考えられていますが、どうも脳の場合は違うようです。
今回の研究チームは、その理由についても解明しています。
いったいなぜ脳は弾力を保ったぷるぷるの状態で1万年以上も保存されることがあるのでしょうか?
研究内容の詳細は2024年3月20日に『Proceedings of the Royal Society B Biological Sciences』にて公開されました。
目次
考古学において脳の発見は珍しいのか?なぜプルプル状態の脳が一番長持ちするのか?
考古学において脳の発見は珍しいのか?
ビクトリア朝の救貧院墓地(英国ブリストル)に埋葬された個人の脳の断片。深く浸水した墓から回収された。なお皮膚など他の軟組織は残っていなかった。 / Credit:Alexandra L. Morton-Hayward
脳は死後に最初に分解される「最も脆い臓器」として知られています。
脳の脆弱さは法医学においても常識となっており、他の臓器が形を留めている段階でも、脳だけはいち早く液状化を起こしてしまうことが知られています。
そのため考古学の世界でも遺跡から原形を留めた脳がみつかることは奇跡的と考えられており、発見された場合は大ニュースとして取り扱われます。
しかし、この奇跡という認識は本当に正しいのでしょうか?
20世紀初頭にエジプトで活躍したエリオット・スミス(1871~1937)は「発掘にかかわったほぼ全ての考古学者たちは、脳が保存されていたという事例を知っている」と、意外な言葉を残しています。
そこで今回、オックスフォード大学の研究者たちは17世紀半ばまで記録を遡り、脳を発見したとする事例を収集しました。
すると報告されただけでも4400個以上の脳が発掘されていたことが判明します。
この数は、奇跡と呼ぶには多すぎます。
発見場所も古墳、沈没船、井戸の底、鉛の棺の中、ベルギーの教会墓地、インカの生贄とさまざまであり、最も古い脳はロシアの永久凍土から発見された1万2000年前のものでした。
また最近の脳としては、北極探検家やスペイン内戦で死んだ兵士の脳が含まれていました。
脳が保存されるのに気候はそれほど関係ないようだ / Credit:Alexandra L. Morton-Hayward et al . Human brains preserve in diverse environments for at least 12 000 years . Proceedings of the Royal Society B Biological Sciences (2024)
一般には、脳のような軟組織が保存されるには、極端な乾燥や凍結が必要だと思われてきましたが、発見位置は南極を除く6大陸全域に及んでいます。
さらに興味深いことに、4400個のうち1300個の脳では、発見時に脳以外の全ての軟組織が失われ、ほぼ白骨化していました。
つまり脳だけが残っているケースが全体の30%に達していたわけです。
これは脳が脆弱な組織とする認識からは、考えられない結果です。
次に研究者たちは、発見時の脳の状態を分類してみました。
すると脱水(37.8%)、冷凍(1.6%)、けん化(29.7%)、皮革化(0.7%)、プルプル(30.1%)という比率になっていることが判明します。
「けん化」は石鹸のようになる現象、「皮革化」は組織が革のように硬くなる現象 / Credit:Alexandra L. Morton-Hayward et al . Human brains preserve in diverse environments for at least 12 000 years . Proceedings of the Royal Society B Biological Sciences (2024)
発見時の状態はある程度、周囲の気候に関連しており、脱水状態の脳は42.6%が砂漠地帯で、凍結状態の脳の72.7%がツンドラ地帯、けん化した脳の71.4%が海洋性気候、皮革化した脳の100%が海洋性気候となりました。
ただプルプル状態の脳は幅広い気候帯で発見されており、湿潤な地方でやや多くなっている程度でした。
しかしより興味深かったのは、それぞれの状態が耐えられる限界値でした。
食べ物などを長期保存する場合、最も有効なのは乾燥や冷凍です。
水気を含んだ半生の食べ物ほど早く腐敗してしまいます。
そのため常識的に考えれば、最も長持ちするものは乾燥や冷凍状態のもので、逆に水気を含んだ脳はもっとも弱いと考えるでしょう。
しかし研究者たちが、上の図のように、発見された脳の古さを、それぞれの状態の限界値を調べたところ
「脱水:8970年、冷凍:5180年、けん化:3900年、皮革化:2790年、プルプル:1万2000年」
と予想に反して、水気のあるプルプルの状態の脳が最も高い耐久値を持っていたことが判明します。
なぜこのような結果になったのでしょうか?
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なぜプルプル状態の脳が一番長持ちするのか?
なぜ最も腐りそうなプルプル状態が一番長持ちするのか?
今回の研究ではそのメカニズムについても予測が行われています。
軟組織が超長期にわたって存続できるかを決める第1の要因は、微生物などによる腐敗や分解を避けられるかにかかっています。
乾燥・凍結・皮革化が有効なのは、水分が排除されることで、微生物の活動が妨げられるからです。
また脳が腐らず乾燥・凍結するような環境では、通常、気温も微生物の活動に不向きな場合が多くなります。
しかし微生物の活動を抑えるだけでは、1万年を突破することは困難です。
そこで研究者たちが着目したのが、脳だけに起こる可能性がある、特殊な分子架橋の仕組みでした。
これまで発見された軟組織の化石の多くは、タンパク質・脂質・糖といった生体分子が組織中で結合(架橋)することで、化学的に安定した重合高分子を形成していることが知られています。
特に硫黄を含むアミノ酸残基は隣同士で架橋し合う性質が知られており、時の試練に耐える強固な分子結合をうみだせます。
脳細胞は信号伝達の仕組みとして硫黄を含むアミノ酸が多数存在していることが知られており、他の軟組織よりも架橋が起こりやすくなっていると考えられます。
分子架橋と金属錯体の化学的プロセスが、未知の保存メカニズムを支えている可能性がある。 (a)ポリペプチド内およびポリペプチド間の正常な生理学的過程で形成される共有結合架橋は、タンパク質の構造と機能を決定する上で極めて重要である。(b)初期の架橋には、反応性の高いアミノ酸残基が優先的に関与する。 (c) 細胞内鉄酸化還元サイクルは、脂質過酸化を誘導する活性酸素種(ROS)を生成しその結果、分子架橋に利用可能となるRCSが生じる。 / Credit:Alexandra L. Morton-Hayward et al . Human brains preserve in diverse environments for at least 12 000 years . Proceedings of the Royal Society B Biological Sciences (2024)
他にも神経組織を化学的に安定させる方法としては、鉄などの金属錯体を利用した無機物領域の形成や、鉄を使った架橋の仕組みが存在します。
発見された脳の中には酸化鉄によって覆われ、表面が赤オレンジ色になっているものも存在します。
研究者たちは、超長期にわたって保存されてきた脳を分子レベルで調べることができれば、生体組織を地質学的なスケールで存続させる仕組みがわかるだろうと述べています。
また保存されている脳は、生体分子の情報源としても有用です。
これまで鉄器時代の歯などからは100個のタンパク質が回収され、石器時代の指の骨からは15個のタンパク質が回収されました。
しかし保存された脳からは738個ものタンパク質が得られ、骨に比べて軟組織が大量の情報を持っていることが示されました。
また採取された臓器を比較した試験でも、脳が最も多く高品質なDNAを抽出できることが判明しています。
もし古代の脳のニューラルネットまで調べられるようになれば、古代人の記憶ものぞけるようになるかもしれませんね。
参考文献
New archive of ancient human brains challenges misconceptions of soft tissue preservation
https://phys.org/news/2024-03-archive-ancient-human-brains-misconceptions.html
元論文
Human brains preserve in diverse environments for at least 12 000 years
https://doi.org/10.1098/rspb.2023.2606
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。