なぜイギリスだけで産業革命が始まったのか?

歴史好きの人ならば、なぜイギリスだけで産業革命の震源地になれたか疑問に思うことでしょう。

民主主義の語源ともなった古代ギリシャの都市国家たち、広大な領土と高度な技術を持っていた古代ローマ、何度も繰り返し打ち立てられた中国の歴代の王朝、古代ローマの技術を継承した中東のイスラム文明。

これらの国々は高度な民主主義体制や広大な領土、王や皇帝が持つ権力の大きさ、高度な富の集中など、産業革命が起きても良さそうな盛況さ兼ね備えています。

しかし現実には、イギリスだけしか自力で産業革命を始めることができませんでした。

何故なのか?


歴史学最大の謎 / Credit:川勝康弘

その理由として研究者たちは、イギリスの制度に着目しています。

当時、イギリスの経済は向かいの大陸とは異なり、関税や規制が少なく、人々はより自由に経済活動を行うことができました。

一方、同じ時期のオランダ都市ライデン周辺では人々は繊維生産をすること自体を禁止されていました。

またスウェーデンでは1800年代になるまで町から10マイル(16km)以内では、商店を出すこと自体が許されていませんでした。

このような現代からみて不合理に思える規制は当時の世界ではごくありふれており、その目的は貴族など支配者層に富みを集中させることにありました。

自由な経済活動は人々に豊かになれる可能性を提示することでインセンティブを引き出し、時代を先取りするような奇抜なアイディアにも出資を促します。

労働者を集めて生産を効率化させようとする機械のない時代の工業化アイディアさえも、商品の生産や店舗の出店すら許されていなければ、生かしようがありません。

しかしイギリスではこの手の規制が緩やかであったため、1700年の段階で製造業の全雇用の半分は地方の田舎から供給されていました。

そこでは羊毛など原料を販売する商人が独自に加工を担う労働者を働かせるなど、現在で言う垂直統合(供給チェーンの統合)も部分的に進んでいました。

この経済学的なアドバンテージは規制にがんじがらめにされていた当時にあってはある種のチートとも言えます。

ですがこの経済学的な進歩も、王や皇帝の力が強すぎれば、重い関税や独占権を駆使して、供給チェーンどころか工業化が起こる芽も潰していたでしょう。

さらに産業革命や工業化は社会変革とセットであるため、現状維持を強く望む支配者は税に関係なく規制を強めて積極的に潰すこともありました。

工業化が遅れて他国より国力が劣る事態になっても、自らの支配の安定のほうが重要だからです。

ある意味で、支配者にとって産業革命などの技術革新は敵なのです。

現代においても北朝鮮などをみると、技術発展や経済よりも支配安定を優先している様子がよくわかります。

このようなイギリスにおける社会システムの先進性からも、蒸気機関=産業革命というイメージがいかに歪んでいるかがわかるでしょう。

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イギリスの工業化には隠された2段階目が存在した

新たな研究では、イギリスの工業化が一本道でないことも発見されました。

普通なら、産業革命の下地がクリアーされている状況で、蒸気機関のテクノロジーが解禁されれば、あとは産業化まっしぐらだと思えます。

確かに、後のイギリスの発展をみれば、全体としてはその通りと言えるでしょう。

しかし地域ごとにみると、労働者と農業従事者の人口割合の逆転が起きていたことがわかりました。


最初期に工業化した南部と東部だったが北部が盛んになると再び農民が増えていった / Credit:The Cambridge Group for the History of Population and Social Structure . Cambridge

上の図は労働者人口の割合の変化を示したものとなり、イギリスの工業化の初期段階では、東部や南部で労働者が多くなっていたことがわかります。

しかし時代が進むにつれて、東部や南部では労働者割合が減少し、代わりに北部で増加していることがわかります。

ここでようやく登場するのが、蒸気機関です。


最も初期に開発された大気圧機関 / Credit:wikipedia

蒸気機関は1700年代初頭に初めて発明され、当時は大気圧機関と呼ばれており、鉱山の廃水ポンプなど限られた用途にのみ使われていました。

SFの一種であるスチームパンクの世界では、よく見かける建造物です。

その後、蒸気機関の進化は続き1769年にワットによる改良を経て、1780年代に実用化が進みました。

そうなると石炭の需要が増すため、最終的には石炭が豊富なイングランド北部で工場をもつことが有利になってきます。

そのため上の図でも時間が経過していくと、北部の労働者割合が急速に上昇していくことがわかります。

一方で先に工業化を成し遂げたはずの東部と南部では、労働者割合が減少し、農業従事者が増えると言う逆転現象が起こりました。

たとえば東部のノーフォークは1600年代では最も工業化が進んだ地域であり1700年には成人男性の63%が工場労働者として働いていました。

しかしそこが最盛期であり、1700年代が過ぎていくと労働者の割合は39%に減少し、一方で農業従事者は28%から51%に増加しました。

研究者たちはこの現象を「産業の空洞化」と呼んでいます。

また蒸気機関の発明により効率が上がると人手もあまりいらなくなり、産業時代の最盛期と考えられている機関を通じて、ほとんど労働者の割合は増えませんでした。


効率化により産業革命の盛期であっても労働者数は横ばいだった / Credit:The Cambridge Group for the History of Population and Social Structure . Cambridge

多くの人は「産業革命を迎えると国中が工場労働者だらけになる」というイメージを持ちますが、イギリスの産業革命によって実際に起きたのは、労働者割合の増加ではなく、仕事の性質と仕事の場所の変化だったのです。

またこの変化の影響が最も大きかった労働者は、女性と子供でした。

成人女性の労働参加率は1760年には60%~80%でしたが1851年には43%に低下しました。

この低下した女性の労働参加率が1760年代の水準に戻るのは1980年代になってからです。

一方で子供たちにとっての変化は好ましいものでした。

ブラッドフォードでは主に繊維工場などで膨大な数の13~14歳の女の子が働かせており、1851年の時点では11~12歳の女の子の40%が工場で働いていました。

しかし1911年になるとこの比率は10%まで低下し、義務教育制度がはじまりました。

研究者たちは今回の研究成果から「工業化の2つの段階の区別をするためにも教科書を書き直す必要がある」と述べています。

参考文献

The Cambridge Group for the History of Population and Social Structure
https://www.campop.geog.cam.ac.uk/research/occupations/

ライター

川勝康弘: ナゾロジー副編集長。
大学で研究生活を送ること10年と少し。
小説家としての活動履歴あり。
専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。
日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。
夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。

編集者

ナゾロジー 編集部