桐島との約束「9月に会おう」
「船本も言及していたし、自分たちの意識にも花岡事件は強くあった。このときは桐島が見張りで、物置みたいなところに黒川くんが仕掛けた。実際は、花火を上げた程度だったけど。私はバイトで、この日は現場に行っていない」
2回目は、間組を対象とした。これは「さそり」が提唱し、初の3部隊合同作戦となった。題して、「キソダニ・テメンゴール作戦」。戦時中、間組が行なった木曽谷の水力発電所での中国人労働者への虐待を弾劾し、マレーシアのテメンゴールダム建設反対行動への連帯をその名に込めた。
「今、行なわれている侵略行為に対しても、告発していく。過去の行為に対してと同様、連帯の意思を表明するという」
「大地の牙」が埼玉の大宮工場、「狼」と「さそり」が東京の青山の本社を同時爆破、黒川さんが予告電話をかけた。
「桐島が途中までトランクを運んで、青山の並木の便所で私が引き取って、私が間ビル6階のロッカーの上に置いてきた。狼は、本社の9階のコンピュータールーム。テメンゴールダムの工事を、担当している部署だった」
ふと、「さそり」には爆弾製造技術で、「狼」へのコンプレックスがあったのではないかと気になった。
「そりゃ、明らかに製造能力は劣っている。さそりには、雷管は作れない。専門的な火薬の知識が必要だし。だから、狼から提供されて使っていた。大地の牙も作れない。大地の牙も、狼から回してもらっていた」
「さそり」3回目の作戦は、間組の江戸川作業所。入念な下見を重ね、夜間は人がいないと確認したにもかかわらず、1人の重傷者が出た。6日後の1975年5月4日、同じ場所でコンプレッサーに爆弾を仕掛けたのは、前回の不発弾処理のためだった。
「江戸川では桐島が爆弾を置いたから、彼は悩んでいた。負傷させてしまったと……」
5月19日。その日は、朝から雨が降りそぼっていた。テレビ画面で息急き切ったアナウンサーが、「東アジア反日武装戦線メンバー数人を逮捕」と告げた瞬間、宇賀神さんは桐島さんのアパートに走った。警察はまだ来ていない。2人で話し合って、これからのことを決めた。
「二人で行動するのは目立つから、別行動にしよう。ただ、年に1回は会おうよ」
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「さそり」とはなんだったのか?
「9月に会おう」と、再会の場所と日時を確認して、お互い、逃亡者として生きる運命に身を任せた。宇賀神さんが指定した場所は、鎌倉の「銭洗弁天」。まさか、そこが「宇賀神社」だったとは、宇賀神さんも行ってみるまではわからなかった。
「約束した時間に、私はその場所へ行った。だけど沿線で爆弾事件があって、警察が動いていたこともあり、早々に立ち去った」
それから、49年。会うことがないまま、突然の今年の一報となった。会って話をしたかったが、一縷の望みも虚しく桐島さんは亡くなり、死に顔を見ることも叶わず、亡骸は荼毘に付された。
「あの手配写真のように、明るく笑う男だったよ。桐島は私が来ると思って、待っていたんじゃないかな。湘南を離れず、神社の近くで。それが、ちょっと悲しくなる。私も逮捕されるまでは桐島に会おうと、“約束の9月”に、神社に通っていたんだよ。報道で知る限り、桐島のやさしさが多くの人に親しまれ、桐島はありのままの“我”を楽しんで生きたのだと思う」
話し終えた宇賀神さんに、「さそりとはなんだったか」と、最後に尋ねた。飄々とした笑顔で、宇賀神さんはサラリと言った。
「さそりの半年は密度濃い時間とは言えなかったけれど、その後、非常に興味深い時間に引っ張られて生かされた。逃亡中、獄中、こんな経験、なかなかできない。得がたい、いい人生だった。まだ、終わっていないけど。負傷者を出してしまったことは、悔やんでも悔やみきれないものとして残っている」
取材・文/黒川祥子