「沖縄問題」と「三里塚闘争」
1969年秋、『沖縄』という映画を見たことで、宇賀神さんは沖縄問題に惹きつけられる。
「基地の反対闘争、米軍機の墜落、基地の薬品による水道汚染など、なぜ、沖縄にばかり負担をかけるのか。しかも、ベトナム攻撃の発進基地になっている。絶対に、何とかしないといけないという気持ちがあって」
1970年2月、高校2年で単身、沖縄へ向かう。返還前ゆえ、「渡航許可証」がなければ沖縄へ行くことができない時代だった。晴海埠頭から船で2日かけて、那覇港へ。
「愛読していた小田実の、『何でも見てやろう(注3)』の影響もあったけど、沖縄の問題を知ったからには、何もしないままではいられなかった。年末年始の郵便局のバイト、製本屋の荷物運びで、お金を貯めて……」
沖縄に知り合いがいるという高校の教師に紹介状を書いてもらい、さらに教師は米軍に占領された伊江島で、非暴力の土地闘争を行なった阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さん(注4)への紹介状も渡してくれた。生徒が「このままではおかしい」と社会問題に興味を持ったとき、ちゃんと支える姿勢が当時の教師にはあったのだ。
「明治学院には面白い先生が多く、大島渚の映画『日本の夜と霧』に出演していたり、米兵の逃亡を助けたグループの先生もいたり……」
沖縄滞在は10日間、高校教職員組合の教師や、学生の話を聞き、合間には沖縄観光もした。
「泊まるところがないと言ったら、那覇の教組の事務所に泊めてもらいました。でも、だんだん、自分は何をしにここに来たんだろうって、自分への不信感が募ってきて……。
自分は沖縄で何をしたらいいのかって考え出したら、どうしたらいいかわからなくなり、沖縄の高校の先生に生徒との話し合いの場を作ってもらったのに、行けなかった。約束を破ってしまったことが、今も残っている。阿波根さんにも、会いに行けなかった」
打ちひしがれて帰ってきた宇賀神さんだが、1971年2月、息を潜めるように通っていた教会で三里塚闘争の話を聞き、再び、闘争心に火がついた。すぐに単身、三里塚へ向かった。
「家族には旅行に行くとだけ言って、その日の夕方には三里塚に行ってしまった。救援対策の仕事を割り振られ、担架を担いで走り回って、怪我人を乗せて連れてくるっていう重労働。おにぎり2つと漬物をもらって、けっこう、楽しんでやっていた。農民や支援者が大地を守るために生命をかけて闘う姿に、私は深く感動した」
(注3)1961年刊、小田実の旅行記。フルブライト留学でアメリカへ渡った著者が、欧米・アジア22カ国を貧乏旅行した体験談。ベストセラーとなる。
(注4)1901年、沖縄県生まれ。敗戦後、伊江島の土地の米軍による強制接収への反対運動の先頭に立つ。非暴力により、土地収奪の不当性を訴え、土地闘争に大きな影響を与える。
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「さそり」リーダー、黒川芳正との出会い
不思議なのは、宇賀神さんはいつも単身で、興味や関心のあるものに飛び込んでいくということだ。自伝(注5)には小学生の頃、立ち入り禁止と言われた林の一角に入り込み、自然の中で1人、飽きることなく楽しんでいた時間がいきいきと描かれているが、そうした「性分」がそもそもあるのだろうか。
「そう。いつも、一人で動く。それが、好きなんですよ。自分で、判断して」
1971年春、明治学院大学に進学。学内は学費値上げ阻止、ロックアウト粉砕闘争の真っ只中。宇賀神さんは大学当局の不当性に抗議する「クラス闘争委員会」の活動をしていたが、教室でのクラス討論中に逮捕されてしまう。容疑は、「建造物不法侵入」と「威力業務妨害」。どちらも濡れ衣だが、3週間近く勾留された。
やがて「クラス闘争委員会」は解体し、宇賀神さんは多くのメンバーが選んだ大学を去ることにも、授業に復帰することにも踏み込めないまま、どうしたらいいか悩み続けた。
「1972年の始まりは暗かった。連合赤軍事件。あれで、運動は停滞してしまった。人を殺すってことが大きな悪影響を与えたことは確か」
1972年5月、イスラエルのテルアビブ空港で乱射事件=リッダ闘争(注6)が起こる。
「仲間殺しではなく、敵に打撃を与える闘いはこうしてやるのだと、身をもって示してくれた。巡礼者を巻き込んでしまったのは、失点だけど」
宇賀神さんは校舎から、「決死作戦断固支持」のビラを1人で撒いた。夏、ある男に誘われ、京都大学でのリッダ闘争「戦士追悼集会」に参加したことで、宇賀神さんは寄せ場へと引き寄せられる。
「夜、釜ヶ崎の釜共闘のメンバーと関西の底辺委員会の話し合いがあり、僕も参加した。そこで、船本洲治(注7)と初めて出会った」
1972年秋、ある会合への誘いを受け、山谷へ向かったのは「山谷とはどんなところか、知りたい」という好奇心からだ。会合とは「底辺委員会」、その司会を務めていたのが黒メガネ、黒シャツ、黒ズボン、黒靴と、全身“黒ずくめ”の、のちの「さそり」リーダー、黒川芳正さんだった。
取材・文/黒川祥子
(注5)『ぼくの翻身(宇賀神寿一 最終意見陳述集)』(東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議)
(注6)1972年5月、イスラエルのテルアビブ空港で起きた、日本人活動家3名がイスラエルに抗議し、パレスチナ民衆解放のために実行した乱射事件。奥平剛士と安田安之が死亡、岡本公三が拘束された。
(注7)1945年、広島県呉市生まれ。「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」(釜共闘)メンバー。寄せ場の日雇い労働者を真の革命主体と捉え、釜ヶ崎や山谷で活動。黒川芳正と親交あり。75年6月、沖縄嘉手納基地ゲート前で焼身自殺。遺書に「東アジア反日武装戦線の戦士諸君! 諸君の闘争こそが東アジアの明日を動かすことを広範な人民大衆に教えた。この闘争いまだ端緒であり、諸君たちは部分的に敗北しただけである、私は、諸君と共に、生き続けたいために死ぬのである」と記す。