明代版『三国志演義』からの「桃園の誓い」の挿絵、ここから三国志の物語は始まった / credit:wikipedia

中国の三国時代は日本でも知名度が非常に高く、その時代を生きた武将たちの活躍を描いた三国志は人気を博しています。

しかし武将たちの活躍もあって華やかに見える三国時代ですが、中国国内において人口が激減していたことはあまり知られていません。

それではどうして三国時代にここまで人口が減ることになったのでしょうか?

本記事では三国時代になぜ人口が減ることになったのかについて取り上げていきます。

なおこの研究は東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vol.12に詳細が書かれています。

目次

天才だけでなく天災も多かった三国時代戦乱で人口集計が正確ではなかっただけ?人口的に見てあり得ない三国志演義の動員兵

天才だけでなく天災も多かった三国時代


三国時代は戦乱や天災によって、多くの農民が苦しんでいた / credit:いらすとや

戦乱の時代になると人口が減少することは古今東西を問わずよく見られる現象ですが、三国時代のそれは他のものと比べても常軌を逸していました。

後漢の188年の中国の推定人口が6000万人なのに対し、三国時代の221年には1400万人まで激減しているのです。

そんな昔の人口がなぜ分かるのか? と思う人もいるかも知れませんが、中国では地理や官制、軍の編制など多岐に渉る記録が残されており、この記録の中には、各郡県や州の戸数などを記録したものもあるため、これにもとづいて当時の人口を推定することができるのです。

しかしこれは33年間で人口が四分の一になったということであり、非常に驚くべき数値といえます。

その原因として挙げられるのは、相次ぐ戦乱です。

群雄たちが合戦に臨むためには領民たちを募兵して戦力に加えなければならず、それゆえ合戦は農業が行われていない秋から冬にかけての時期に行われるのが普通でした。

しかし相次ぐ戦乱によって農民が農業を行っている春から夏の時期に兵士を動員することもしばしば起こるようになり、穀物の収穫量が大幅に減ることが相次いだのです。

また農地が戦場になった場合は穀物を収穫することができず、ただでさえ少ない収穫量をさらに減らすことになったのです。

さらに三国時代に相次いで起こった天災も人口減の理由となっています。

歴史書を見ると、後漢末の194年には長安周辺(現在の西安)で飢饉が発生し、死人の肉を食べて飢えをしのぐものが発生したという記述があります。


都市部でも多くの人々が飢えていた / Credit:canva

また、197年には天候不順による干ばつやイナゴの発生、213年には大洪水や疫病が続発しました。

これらの災害によって、毎年のように天災による死者が続出したのです。

三国時代は戦乱の時代ということもあり、戦乱による死者が多い印象がありますが、飢饉や災害による犠牲者も多く、特に幼児や高齢者がその影響を受けやすかったことがうかがえます。

戦乱や飢饉による犠牲者が多く、特に幼児の死亡率が高かったことは、人口構成に大きな影響を与えました。

仮に戦争によって人口が減った場合、その人口の回復は比較的早く進むことでしょう。

なぜなら戦闘による死者は基本的には徴兵された成人男性であり、当時は今ほど厳格に一夫一妻制が敷かれていたわけではないので、女性の人口が減らない限り生き残った男性が複数の妻を持つことによって子どもを増やし続けることはできます。

しかし、自然災害による犠牲者は幼児や老人が中心であり、その回復は非常に遅くなりました。

というのも幼児が多く命を落とした場合、同世代内の人口の母数自体が少なくなります。

よってその幼児たちが成人して子どもを産んだとしても、自然災害前の人口まで回復させることは難しいのです。

このようなこともあって、三国時代に減少した中国の人口は、唐の時代になるまで元の人口に回復することはありませんでした。

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戦乱で人口集計が正確ではなかっただけ?


清代の『宮殿蔵画本』に載る諸葛亮の絵、軍師としてだけではなく政治家としても能力を発揮した / credit:wikipedia

このような人口激減に対して、「戦乱による流民が増えたことにより、戸籍で把握することのできない人が増えただけなのではないか」という反論もあります。

実際に三国時代は多くの流民が発生しており、戸籍上の人口と実際の人口でズレが生じていたということも多々ありました。

また天才軍師として知られている諸葛亮(しょかつりょう)は兵力不足に対して「領国内にいる流民に戸籍を与えた上で徴兵して、戦力を増強すればどうだろうか」と劉備に提案したしたことさえあり、当時から群雄たちが流民による人口のズレに悩まされていたことが分かります。

しかし中華全土で合戦が相次いでいた221年時点の人口が1400万人だったのに対し、三国鼎立の体制で魏・呉・蜀それぞれが比較的安定していった242年で1600万人、263年で1900万人、そして司馬炎(しばえん)が中華統一を成し遂げた280年には2100万人となっています。

こうした政治的に安定した時代の人口推移を見ると、三国時代に人口が激減し、その後なかなか回復しなかった状況が伺えます。

流民は戦乱が落ち着いてどこかに定住したら統治者によって戸籍に組み入れられることを考えると、流民による戸籍からの把握漏れは決して少なくはないものの、激減した人口(4人に3人)のほとんどが流民として中華全土を彷徨っていたわけではないことが窺えます。