『ビートルジュース ビートルジュース』 ゴーイング・アンダーワールド!ティム・バートンとウィノナ・ライダーが夢想する死者と生者のダンス

映画制作へのモチベーションを失い、一時は引退することさえ頭をよぎっていたというティム・バートンが『ビートルジュース ビートルジュース』と共に帰ってきた。Netflixのドラマシリーズ『ウェンズデー』を撮ったことが、再びクリエイティブな仕事に戻るきっかけになったという。幾度も計画されては立ち消えていた『ビートルジュース』(1988) の続編。前作でリディア・ディーツを演じたウィノナ・ライダーとは、数年に一度、秘密裏に話し合いが行われていたという。

ダニー・エルフマンのファンタスティックな音楽が響き、マイケル・キートンに続きウィノナ・ライダーのクレジットが出た瞬間、筆者は思わず涙ぐんでしまった。リディア・ディーツという伝説のゴス少女。そして『シザーハンズ』(1990) のあの美しきヒロイン。黄金コンビの復活は、2人にとって困難なときを経た現在だからこそ、より感動を呼ぶ。ティム・バートンとウィノナ・ライダーは撮影現場にキャストが集まったとき思わず泣いてしまったという。『ビートルジュース ビートルジュース』は2人が自身のルーツと向き合い、バカ騒ぎをして、決着をつけようとする映画だ。

墓地への回帰

「墓地は平和で静かで、それでいて刺激的なんだ」(ティム・バートン)※1

1988年のエイプリルフール直前にアメリカで公開された『ビートルジュース』は、伝統的な幽霊映画の常識を覆した。生きている者が厄介な幽霊を追い払うのではなく、幽霊が生きている者を追い払おうとする。物語の開始早々に交通事故で亡くなる夫婦の住んでいた屋敷。幽霊になった夫婦は、屋敷にやって来た新しい家族を追い払うためにビートルジュース(マイケル・キートン)に近づいていく。白く塗られた顔。雷に打たれたような髪型。囚人のような白と黒の縞模様の服。マシンガンのように早口、かつリズミカルに話すビートルジュースは、死後の世界に寄生する悪魔のような存在だ(ビートルジュースの声やリズムはとても音楽的といえる)。ビートルジュースはちょっとバグったような動きをする。映画自体の作りもさることながら、この怪物自体にどこかローファイな手触りがある。レイ・ハリーハウゼンが手掛けた特撮映画のクリーチャーのようなアナログ感がある。たった17分間の登場シーンであるにも関わらず、ビートルジュースは私たちに恐怖を植え付けた。彼の口の周りには苔がついている。きっと墓場から出てきたばかりなのだろう。墓をあばけ。ティム・バートンにとって墓地はインスピレーションのルーツだ。


© Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved.

物語というよりは意識の流れ、イメージの奔流のような荒唐無稽な映画。ティム・バートンの長編第2作にあたる『ビートルジュース』は、この才能溢れる映画作家のイメージが縦横無尽に炸裂していた。登場人物は死の世界と生の世界を頻繁に行き交う。街の実景とミニチュアの街の風景の間を行き交う。2つの世界は常にシームレスにつながっている。それは登場人物だけでなく、観客の方向感覚さえ狂わせる。予測不能な遊園地のアトラクションに乗っているような感覚。つまりこの映画は観客をとてもワクワクさせてくれる。『ビートルジュース ビートルジュース』は、この原点へと回帰している。

『ダンボ』(2019)以後、映画制作からの引退を考えていたティム・バートン。『ビートルジュース』シリーズへの回帰の道筋は、ティム・バートンが創作の原点を“再発見”するための道筋でもある。『ビートルジュース ビートルジュース』は、ティム・バートンが自分の墓をあばくようなクリエーションだ。ダニー・エルフマンの音楽にのせてキャスト・スタッフのクレジットが流れる『ビートルジュース ビートルジュース』の冒頭。前作と同じようにカメラは街の風景を捉えていく。動き続けるカメラは、屋敷の上階の窓際に佇むリディア・ディーツ(ウィノナ・ライダー)の影にたどり着く。リディアこそがこの世とあの世、生者と死者、実景とミニチュアの世界をつなぐ仲介人であり、観客と映画をつなぐ“ガイド”となる。リディア=ウィノナ・ライダーは、10代の頃から変わらないあの魅力的な木管楽器のような声でこの“ショー・タイム”の始まりを告げる。

『ビートルジュース』シリーズには、ティム・バートンの興味深い死生観が色濃く滲んでいる。死は決して人間の終着点ではないということだ。死はなんら解決にならない。ここに描かれているのは、いわば“見習い幽霊”たちの休憩所、または一時的な避難所だ。「死後の世界でお困りの方へ」。死後の世界を知らない私たちは、幽霊の世界における“ガイド”を必要としている!

(広告の後にも続きます)

リディア・ディーツとウィノナ・ライダー

「ウィノナに初めて会ったとき、彼女は10代の頃に自分が感じていたことを思い出させてくれた」(ティム・バートン)※2

「黒一色の時代だった」(ウィノナ・ライダー)※3

黒いドレスを着た青白い顔のティーンエイジャー、ディア・ディーツには幽霊が見える。あの世とこの世をつなぐ物語のキーパーソン。黒いヴェールを纏うゴシックな装いの少女は、10代の傷つきやすさを象徴しているかのようだった。『ビートルジュース』でウィノナ・ライダーが演じたリディアというキャラクターは、ティム・バートンのオルターエゴに留まらない。10代だったウィノナ・ライダーにとって、リディアはそれ以上の存在となる。ウィノナ・ライダーは、“リディア・ディーツ”の刻印が彫られたブレスレットを身に着け、自分の部屋をリディア風に模様替えしている。また、リディアのイメージに合わせ、エドワード・ゴーリー風の人形を収集していたという。ウィノナ・ライダーにとってリディアは自身の思春期=黒一色の時代と完全に共鳴していた。『ビートルジュース』の予想外ともいえる大ヒットにより、リディア・ディーツは後世に語り継がれるキャラクターとなる。エマ・ストーンは一番好きな映画のキャラクターとしてリディアの名を挙げている。『クルエラ』(2021)でゴシック・ファッションを纏うヒロインを演じたとき、エマ・ストーンの頭にあったのはリディア=ウィノナ・ライダーのイメージだったのかもしれない。リディアのスピリッツは確実に受け継がれている。

大学時代に映写技師をしていたウィノナ・ライダーの母親は、就寝前に映画の上映会を開いていたという。ウィノナ・ライダーは母親の影響でフィルムノワールの傑作群をはじめ、古い映画を愛好することになる。子供時代のこの経験はウィノナ・ライダーの俳優としての礎となる。“瞳ですべてを語ることができる俳優”。ティム・バートンのみならず、『ドラキュラ』(1992)に彼女を起用したフランシス・フォード・コッポラや、『17歳のカルテ』(1999)を撮ったジェームズ・マンゴールドは、まったく同じ言葉でウィノナ・ライダーの持つサイレント映画の俳優のような資質を称賛している。ウィノナ・ライダーにとってリディア役は、自分が自分でいることを受け入れてくれてくれた最初のイメージであり、すべての始まりとなったキャラクターといえる。孤独なティーンエイジャーだった彼女にとって、それはどれほど力強い結びつきだったことだろう。

『ビートルジュース ビートルジュース』のリディアは年を重ねている。かつてクールなティーンエイジャーだったリディアは、いまでは母親となり、年頃の娘アストリッド(ジェナ・オルテガ)から反発されている。娘のアストリッドは、かつて芸術家の母親デリア(キャサリン・オハラ)に反発を抱いていたリディアの通った道にいる。『17歳のカルテ』や『リアリティバイツ』(1993)をはじめ、X世代の代弁者のように映画に出演していたウィノナ・ライダーは、非常に困難だった30代を超え、特にNetflixの「ストレンジャー・シングス」シリーズ以降、新たなキャリアのモードに入ったように見える。本人にとってきっかけとなったのは『ブラック・スワン』(2010)への出演だったという。『イヴの総て』(1950)のベティ・デイヴィスを念頭において役に取り組んだウィノナ・ライダーは、落ちぶれたバレリーナ役を演じることで、それまで背負っていたものから卒業できたような、晴れやかな気持ちになれたと語っている。

しかし『ビートルジュース ビートルジュース』のウィノナ・ライダーは、まったくエッジを失っていない。超常現象を扱うテレビ番組に出演することで大衆からの人気を得ているリディアは、昔より遥かに自分を客観視できているが、それでも少女時代と同じく深い闇を抱えているように見える。ビートルジュースの“トラウマ”は決して拭い去れるものではないということだろう。大人になりアストリッドの母となったリディアは、かつてと同じ人間だが同じ人間であってはならないことを知っている。リディアにはアストリッドの母親としての役割がある。しかしリディアは心の中で少女時代のリディアと共に歩いている。黒一色だった時代へのアンビバレンスな感情が、ウィノナ・ライダーの演技をエッジのあるものへと押し上げている。