不安障害で通っていたメンタルクリニックの院長が引退し、代わりに紹介された大学病院で発達障害と診断された桑原カズヒサ氏。還暦間近に衝撃的診断を受けた桑原氏が自身の症状と周囲の反応とに苦しみながらも、前を向けている理由を語る。(前後編の後編)
カウンセリングを受けるも、気が滅入る日々…
「あなたは本当にやりたいことだけをやりなさい」
スカイプ経由で、初老の男性カウンセラーが哀れみを讃えた表情で語りかけてくる。
診断から数ヶ月後、僕は区が運営する発達障害支援施設の公認心理士さんにリモートで無料カウンセリングを受けるようになっていた。
当初はこれで症状がよくなるのではないかと期待していたが……カウンセラー氏は同じ言葉を繰り返すだけだった。
「本当にやりたいこと?」
30年続けてきたライター業がそれに該当するか自問したが、簡単には答えはでない。
「この歳で本当にやりたいことと言われても、見当がつきません」
若くない上に仕事以外に趣味もない。雲を掴むような話に困惑した。
「では、やりたいことが見つかるまで、いろんなことを試せばいいのです」
「でも今の仕事を辞めて、やりたい事を探しだしたら経済的に立ち行かないです」
「生活保護があるでしょ」
「僕には借金もあるし、生活保護受ける前に自己破産してしまいますよ(注:生活保護は借金の返済には使えない)」
「債務整理の方法なら、ネットで調べられますよ」
そこまでして、仮に鉄道オタクとして目覚めたら、鉄道を眺めているだけで暮らせるとでもいうのだろうか。
彼の真意が掴めず、「で、仮に僕がこの歳で本当にやりたいことを見つけたとして、大成できるんですか!」と質してしまった。
すると「あなた、大成したいんですか?」と言い返された。その言葉に「発達障害のくせに?」の響きを感じた。
発達障害の診断を受けたとき以上に気が滅入ってしまい、次のセッションの予約はキャンセルすることにした。
翌週、秋の夕暮れ、僕は都内の繁華街を、息を切らしながら急いでいた。道に迷って約束の時間に遅れそうなのだ。
初めて訪れる場所に行くときはいつもこうなる。
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言い返したかったが飲み込んだ言葉
今日は仕事関係で知り合った人に「来てもいいよ」と言われた飲み会の日だ。
会食に誘ってもらえるなんて滅多にないので、気持ちはウキウキしているのだが遅刻だけが心配だ。それでも何とか指定された時間に間に合った。
飲みが楽しみで1時間早く家を出たのが幸いしたのだ。安堵のため息をつく。この時点で、一日の仕事の9割はやり終えた気分だ。
ちょっと高級な中華料理店の長テーブルに20名くらいはいただろう。知っている顔と知らない顔が混在する宴が始まろうとしていた。
いつものように端っこの席に座る。全体が見渡せないと落ち着かないのだ。
グラスを傾ける音や笑い声が室内に反響する。
みな一応笑顔で「これ美味しいね」などと言いながら料理を啄んでいるが、一人ひとりの顔を穴が開くほど観察してしまう。
本当に楽しんでいるか。居心地悪そうな表情の人はいないか、気になって仕方ない。
そもそも僕は「楽しい」という感覚がイマイチ分からない。テレビで志村けんのコントを見て笑うことはあったが、誰かと雑談して笑ったことはない。
天気の話とか有名人の噂とか何気ない雑談というものが苦痛なのだ。
むしろ、大皿に盛られた料理がみんなに均等に行き渡っているかとか、そんなことばかりが気になってしまう。
だが、せっかくの宴会で黙り込むのはよくない。何か喋らなければつまらない人間だと思われるという恐怖心から、また、やらかしてしまった。
「最近、僕、発達障害って診断受けたんだよ」
「ハハハ、みんなそうですよ。私の周りなんて特に高学歴だらけだし」
向かいの席に座っていた既知の女性が間髪入れずそう発言した。
なんだって!? 君の言うみんなは大学病院で診断を受けたのか、薬を呑んでいるのか、カウンセリング受けているのか、と言い返したかったが言葉を飲み込んだ。
結局、この話題に食いついてくる者はいなかったので、話はそこで終わってしまった。
自分の過ちに気づいたのは、かなり時間が経過してからだ。診断を受けたばかりの頃は、世間で発達障害がまるでファションのように流行っている言葉だとは知らかったのだ。
若い人が「俺、ADHAっぽいんだよね」などと言えば「お前、忘れ物、多いもんな」などと突っ込んでもらえる。
若者の間では、自称発達障害がある種のエクスキューズとして、昭和の時代でいうところの「わたし、天然なんで!」と同じように使われているなんてまるで知らなかったのだ。
「僕、天然なんで」といい歳をした親父が切り出したら、そりゃキモい。かといって通院していると言えば重すぎる。
今では十分それが分かっているので、発達障害の話題は相手を選んで話すようにしている。が、診断直後はいろんな人に告げてしまい、何人かの知人があからさまに僕を避けるようになってしまった。
「おなかいっぱいだね」誰かが放ったその言葉が合図だった。時計に目をやるともうすぐ終電という時刻だ。会計を済ませみんなで最寄駅まで歩いた。
「美味しかったね」「ひさびさにリフレッシュしたわ」などという声に小刻みに聴覚が反応する。
みんなとは駅で解散し、自宅の近くまで戻った時に、体中からどっと疲れが湧き上がってきた。コンビニに寄ってベビースターラーメンの大袋を購入し、部屋に戻るとベッドに倒れ込んだ。
ムシャムシャとお菓子を食べて、一人で宴会の打ち上げをして自分をリラックスさせた。そしてシャワーも浴びずに、睡眠導入眠剤を呑んで寝てしまった。