多くの著作をもつ作家・島村洋子さん。そのキャリアのスタートは80年代に若い女性の間で人気を博したコバルトシリーズでした。そこで『オール・マイ・ラヴィング』『抱きしめたい』といったタイトルの作品を発表し、自分のルーツであるビートルズへのオマージュを捧げています。70年代後半にエドウィンのCMでバッドボーイズの歌う「シー・ラブズ・ユー」でビートルズに目覚め、『ハリウッドボウル』で決定的となり、とにかく夢中でビートルズを追いかけた80年代を経て、91年にジョージと遭遇するまでのビートルズ体験を振り返ってもらいました。

ジョンが死んだのに電車は動いていた


LPレコード『イマジン』に封入されたポスター

竹部:島村さんとの出会いは、『昭和40年男』編集部あてに手紙をもらったことから始まったんですよね。執筆させてほしいという旨の。お名前は知っていたので、作家先生から直筆の手紙をいただいたことに驚いて、すぐに連絡して会うことになったんですよ。神保町の喫茶店でお会いしたのが最初でした。

島村:最初は昭和の野球のことを書きたいというお願いじゃなかったでしたっけ。

竹部:ちょうど島村さんが『バブルを抱きしめて』を出した頃で、昭和に関する諸々を書きたいという話でした。話をするうちにぼくが関わった『東京ビートルズ地図』の話になって、ビートルズねたで盛り上がったんです。それで、島村さんが職業・ポール・マッカートニーの永沼忠明さんと知り合いだという話からWISHINGのライブに誘われて、という流れでしたよね。

島村:それからすぐに、ジョンの原稿の依頼が来た。

竹部:『昭和40年男』のジョン・レノン特集! あれは「ダブル・ファンタジー展」に合わせたもので、奥田民生さんのインタビューの次のページが島村さんの原稿でしたよね。

島村:言えば原稿依頼が来るんだと思った(笑)。そこで80年12月のジョンの死んだ日の1日のことを書いたんですよ。

竹部:いい原稿でした。ビートルズファンって、いろいろなカテゴリーに分けられると思うんですけど、僕の中には2つあって、66年の来日公演を体験した人としてない人、その次がジョンの死を体験した人としてない人なんじゃないかなって思っていまして。ファンにとってこの2つはすごく大きい気がするんですよ。ぼくら世代は当然来日公演には間に合っていないんだけど、ジョンの死んだ日は体験できた。悲しいことだけど誇らしくもあるといいますか。

島村:『ダブル・ファンタジー』が出てすぐのことでしたからね、ジョンはこれからやる気らしいぞって思ったやさきのことで。もうコンサートが決まっていたんでしたよね。 1980年って1月のポール逮捕から始まって12月のジョンの死で終わるつらい1年でした。どっちも冬で、寒くて暗い時期で……。

竹部:だからか、ビートルズは冬が似合う。

島村:いま思い返してもあのときの報道はめちゃくちゃでしたよ。ジョンが死んだのに「イエスタデイ」をかけていたり。

竹部:その証拠映像のビデオ持っていますよ。

島村:なにもわかっていないやつが作っているなと思った。でも当時はビートルズの解散からまだ10年しか経ってないわけで、テレビ局のディレクターたちも、ビートルズを聞いていた世代じゃないかと思うのに、なんでああいう作り方になったんですかね。

竹部:知らない人が作っていたんじゃないですか。松村雄策さんがよく言っていた「クラスにビートルズファンはいなかった」っていうやつ。ビートルズ世代はウソという話。

島村:事件のすぐあとに加藤和彦と竹内まりやが司会をやっていた『アップルハウス』っていう音楽番組で、ジョンの死が取り上げられていて、竹内まりやがウェットにジョンのことを語っていましたよ。

竹部:そうなんですね。

島村:81年からは『ベストヒットUSA』が始まって、最初の頃は「ウーマン」がランクインしていましたよね。

竹部:最初の頃は変なイメージ映像が流れていたんですよ。

島村:「ウーマン」のビデオはジョンとヨーコがセントラルパークを歩いているやつですよね。

竹部:そうなんですが、『ベストヒットUSA』では流れていなかったんですよ。途中から流れ出したんです。「ウーマン」のビデオで覚えているのは、日本では最初にNHKの『ニュースセンター9時』で流れたんですよ。で、そのときにキャスターは「このビデオは今日1回のみのオンエアです」と言ったんです。本当かと思って、目を皿のようにして見ていました。まだ家にビデオがなかったので。その後各局でオンエアされていくんですけどね。

島村:磯村アナの時代だ。でも当時、まだ15、6年しか生きてないと、ジョンの死が人生の中でどのくらい大きい事件なのか、よくわからないんですよ。今思えば試験を受けないっていう選択もあったな、とか思ってしまう。あの日は、ちょうど期末テストでしたから。それで、ジョンが死んだことをなんとも思わない人もいるんだなってことがわかった。その少し前に大平正芳が内閣総理大臣の現職のまま死んだじゃないですが。それでも別にどうってことなく電車は動くんだなって思っていて、でもジョンが死んだらさすがにと思ったら、やっぱり電車は動いていた。

竹部:それってまるでRCの「ヒッピーに捧ぐ」じゃないですか。「ヒッピーに捧ぐ」の清志郎のシャウトと「マザー」のジョンのシャウトが重なるんですよ。でも、クラスでジョンの死を悲しんでいる人っていなかったですよね。

島村:いなかった。あまり口をきいたことのない男子が寄ってきて、その人もビートルズファンってことを知ったみたいなことはあった。

竹部:ビートルズファンは少数派でしたよ。

島村:その2、3年前かな、大阪にベイ・シティ・ローラーズが来たんですよ。コンサートに行く人は当日病欠の申請を出さなきゃいけなかったんです。私は先生にもロックファンだと知られていたから、絶対病欠するだろうって思われていたんです。でもロックファンはベイ・シティ・ローラーズには興味ないじゃないですか。ベイ・シティ・ローラーズって歌謡曲ですよね。なんでわからないんだろうと思って。

竹部:それは先生にはわからないかも。でも、森若香織さんから当時のローラーズの人気の凄さを聞いたことがあります。ローラーズの来日騒ぎはビートルズの級だったらしいですね。ローラーズが出ていたキットカットのコマーシャルは覚えています。

島村:あの頃やっていた朝の情報番組でベイ・シティ・ローラーズのコーナーがあって、彼らが出演したイギリスのテレビ番組の映像を流すことがあったんです。そのなかでメンバーが「僕たちの尊敬するグループ、ビートルズ」って言ってビートルズの映像も流してくれたことがあって。それを観たりしていましたけどね。

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ビートルズだ、と思ったら実はバッドボーイズだった。


77年にリリースされた『ビートルズ・スーパー・ライヴ(アット・ハリウッドボウル)』

竹部:ローラーズで思い出したんですけど、ビートルズの『ハリウッドボウル』のライブ盤に付いていたライナーノーツの中でジョージ・マーティンが、ローラーズの人気と比較してビートルズの凄さを伝えるくだりがありましたよね。娘に「ビートルズってローラーズと同じくらい人気あったの?」と聞かれて「ビートルズはローラーズどころではなかった」って答える話。

島村:きっと、いつか娘はビートルズのすごさに気がつく日が来るのではないかっていう。

竹部:よく覚えていますね(笑)。ライナーノーツを暗記してしまうくらいあの『ハリウッドボウル・ライブ』は素晴らしいアルバムですよね。あれがなかったことになっているのは絶対におかしい。ジャイルズ版の『ハリウッドボウル』に比べると音の迫力が全然違うんですよ。

島村:女子のキャーは必要なんだと思う(笑)。古今東西、あれほど迫力ある女子のキャーの録音物ってほかにないような気がする。いろんなライブアルバムがあるけども。あれがすごくよかったんですよ。

竹部:確かに。当時のアイドルのライブ盤を聴いてもあそこまでの嬌声はないですよね。フォーリーブスとかタイガースとかのライブ盤を聞いても。『ハリウッドボウル・ライブ』には女子の本能が録音されていますよね。

島村:ビートルズの音も重くていいんですよ。「ヘルプ!」が始まるときとか。あと「ロング・トール・サリー」も最高じゃないですか。あんな演奏はほかにないですよね。「ロング・トール・サリー」で終わると、もう1回A面にひっくり返して「ツイスト・アンド・シャウト」から聞きたくなる。ライブバンドとしてのビートルズは本当に素晴らしいと思う。

竹部:ジョージ・マーティン版の『ハリウッドボウル』はどうやってミックスしたのかと思う。海賊盤のコンプリート音源を聞いても薄っぺらくて迫力はないし。不思議。島村さんはあのレコードを当時買ったんですか。

島村:買いましたよ。お小遣い月3000円なのに、2500円とかしたんじゃないですかね。残額500円でどうやって過ごしただろう(笑)。あのレコードのインナージャケットに印刷されていた写真もいいんですよ。女の子たちの姿、背中の写真もいいんです。

竹部:この会場にいたいと思いました?

島村:66年の武道館と64年のハリウッドボウル、どっちかに行けるって言われたら迷わずハリウッドボウル!昔ハリウッドボウルに行ったことがあって、客席の上から下まで走ってみたんですけど、音響がいいんで驚きました。パーンって手を叩いたらすごく反響して。

竹部:ぼくもハリウッドボウルに行ったことあります。いい場所ですよね。自然に囲まれていて。島村さんは『ハリウッドボウル』が出る前からビートルズは好きだったんですか。


『ハリウッドボウル』のLPの中ジャケ

島村:それこそあれですよ、エドウィンのCMの「シー・ラブズ・ユー」。『TVジョッキー』の間に流れていたんです。ビートルズだ、と思ったら実はバッドボーイズだった。リッキーさんの声なんだけど。あの頃、三ツ矢サイダーのCMでもビートルズが流れていたでしょ。

竹部:ぼくはそのCMは見たことないんです。話には聞いたことがありますが。

島村:70年代後半かな。それで『ハリウッドボウル』が決定的。今は皆『ラバーソウル』以降をいいって言う人が多いけど、やっぱり、バンドというものはみんなの前で演奏したときに値打ちがあるものじゃないですか。だから初期の方が好きだなって思うんです。

竹部:そうですよね。僕も一周回って『ハード・デイズ・ナイト』。

島村:1977年、中1の夏に『ビートルズがやってくるヤア!ヤア!ヤア!』が放送されることをテレビ誌で見つけたんです。土曜日の昼だったんですが、すごく楽しみにして待っていたのに映らなかった。よく見たら、それは東京のTBSであって、大阪のテレビ欄ではなかったんです。それで、生まれて初めてテレビ局、毎日放送に電話したんですよ。そうしたら「うちではやらないんです。ビートルズは高いしね」って。でも1ヵ月くらいしたらやってくれたんです。それをテープに録音していつもいつも聴いていました。

竹部:そんな放送があったんですね。

島村:吹き替えは広川太一郎でした。

竹部:それは観てみたかった。『ハリウッドボウル』が出た前後は編集盤が出ているじゃないですか。『ロックンロール』『ラブ・ソングス』。『ハリウッドボウル』同様CD化されていないですけど。どういう買い方をしていたんですか。

島村:東芝から出ていた国旗帯のやつを番号順に集めていたんです。とにかく213曲全部聞きたかった。でも、オリジナルアルバムを買うだけでは聞けない曲があることがわかった。たとえば「イエス・イット・イズ」なんかそうですけどね。「イエス・イット・イズ」は『ラブ・ソングス』で聞きました。2枚組で3600円だったかな。あの曲は「ディス・ボーイ」に似ているけど、「ディス・ボーイ」と違ってサビが2回ある。そこが偉いなとか。 あの曲のコーラスはすごくきれいですよね。

竹部:「涙の乗車券」のB面。

島村:それで「ヒア・ゼア・アンド・エブリホエア」っていいな、心が落ち着くなと思ったりして。

竹部:『リボルバー』で聞く「ヒア・ゼア」と『ラブ・ソングス』で聞く「ヒア・ゼア」は違いますよね。

島村:ほかにも「スロー・ダウン」や「マッチボックス」も『ロックンロール』が出るまではEPでしか聞けなかったし、「バッドボーイ」も『ロックンロール』が出るまでは『オールディーズ』で聞くしかなかった。CDになってから『パスト・マスターズ』ですべて聞けるようになるわけですけど。

竹部:213曲をどうやって聴くかってことは、あの頃のビートルズファンのひとつのテーマでしたよね。未CD化という意味では『オールディーズ』もCDにすべき。『赤盤』『青盤』を何度も出し直しするんだったらなおさらですよ。

島村:『オールディーズ』ってすごい満足感あるじゃないですか。シングルヒットって大事だなっていうか。

竹部:我々世代にとっては『オールディーズ』『ロックンロール』『ラブ・ソングス』『ハリウッドボウル』は重要ですよね。

島村:それだけでミーハーなところは抑えられる(笑)。

竹部:そういう収録曲情報はなんで知ったんですか。

島村:レコード屋でもらった小冊子。東芝が作ったやつ。横長だったかな。それに聞いた曲をちゃんと印をつけていました。ものすごく熱中してやっていたな。

竹部:同じく(笑)。

島村:今の若い子が好きなアイドルのコンサートのためにちゃんと化粧していこうみたいな気持ちと同じですよ。向こうからしたら何万人の1人だから見えないだろうとか思うけど、それは関係ない。私もビートルズに対してもそんな気持ちでした。

竹部:かなり大きな存在ですね。

島村:「ビートルズっていい曲あるよな。僕も好きだよ」みたいな人がいるじゃないですか。私としてはなんでそこで終わってしまうのか。その後の人生が変わらないのが不思議なんです。

竹部:響くか響かないか。人によってスイッチが入る人と入らない人がいるんですよね。僕らは入ってしまった人種なんですが。

島村:ほかのアーティストの曲を聴いて、いいなと思うことはあるけれど、人生が変わることはない。でもわたしにとってビートルズは、白黒だった世界がカラーになるぐらいの驚きがあった。単なる音楽じゃないんですよ。髪型、発言、服装。だからビートルズを聞いたのに普通に人生を送っている人が不思議で……。どうしてそこでとどまったのか。

竹部:この連載は10代の頃の自分を思い出して書いているんですけど、冷静に振り返ってみると、かなり頭がおかしいんですよ。

島村:熱狂的に好きだったという一言では片付けられないぐらいですよね。思いの深さとかはうまく説明できないけれど、24時間のうちに寝ている時間以外はビートルズのことを考えていた。いや寝ているときも考えていたのかもしれない。タイムマシンがあったらあのときのわたしに会って、どういうつもりなのか聞いてみたい(笑)。のどが渇いた人が今水飲まないと死ぬぐらい、そういう感覚でビートルズを聞いていましたよ。

竹部:おもしろいですね(笑)。

島村:そう思うとうちらがビートルズを選んだのではなくて、ビートルズに選ばれたのかも。ビートルズじゃなくてもいいんですけど、何かに熱中するものがあった人となかった人では、人として何かが違うと思いたい。

竹部:ビートルズにとって80年代って暗黒期だったにもかかわらず、熱狂していた自分たちのことを踏まえると、そういう考えになっても不思議ではないです。

島村:80年代は良い時代になるはずだって言ったジョンが早々に死んでしまいますからね。

竹部:ジョンは死んでしまうし、ほかのメンバーのソロ活動は停滞するし、音楽シーンにおいてもビートルズは過去の存在になっていました。

島村:最初の頃はまわりにビートルズファンの友達もいて、映画『ロックショウ』や『抱きしめたい』やファンクラブのフィルムコンサートにも一緒に行っていたんですが、徐々にいなくなって、「どうしてまだビートルズを聴いているの?」みたいなことを言われたりもしました。キッス、チープ・トリック、クイーン、もしくは世良公則に行く気持ちもわからないでもないですけど、基本はなんですかって話で。新興宗教に行くよりも、古くからある仏壇が大事という発想なんですよ。

竹部:石坂敬一さんの言うところのビートルズ原理主義的発想ですね。島村さんは、その頃にはもう作家になろうと思っていたんですか。

島村:小学生の頃から思っていました。本屋に行ったとき、ここに自分の書いたものは売られるべきだと。子どもの頃から作文は上手だったと思いますが、書く気持ちがあるのと、読んでもらえる技術は別じゃないですか。 だから、人に読んでもらえる技術を磨こうとか思っていました。でもその気持ちは誰にも言わずに心の中に隠して、黙っていました。自分の内面を他人に知られるって恥ずかしいじゃないですか。今は皆ブログとかSNSに平気書いているけど、実は恥ずかしいことですよね。

竹部:最近読んだ山田太一のエッセイでも同じようなことが書かれていました。なんでもかんでも晒すものではないって。

島村:わたしも恥ずかしいことだと思って生きていこうと思いますよ。

竹部:実際に作家になってしまうところがすごいわけですが。

島村:そういう業があるのであれば、なるのは自分だろうと思っていました。でも大人になってからは、そういう人が敗北していくんだっていうのはわかったけど。