ネットのない時代は精神的な距離が遠かった


アビーロードスタジオにて

竹部:自分の希望通りの道に進むって、あらかじめの素養と努力もあるけど、タイミングや運、気持ちの部分もありますからね。ヨーコが言っていましたよね。自分で人生を選択しているような気になっているかもしれないけど、実は最初から決まっていたのよって。

島村:そう。私、今はそう思います。年取ると本当にそう思いますよ。それは如月小春がやったインタビューですよね。

竹部:86年かな、ヨーコの来日の宣伝用に作られた番組だったのに、来日が中止になって。最初に島村さんに会ったときもこの話をしましたよね。インタビュー中、ヨーコが「ハンマーって日本語でなんて言うんだっけ?」って言うと、如月小春がすかさず「金づちです」って教えるシーンが印象的だったって(笑)。

島村:あれはいいインタビューなんですよ。ヨーコって『ゲット・バック』を見ると、図々しい女だって思うけど、実はインテリの育ちの上品な女性なんですよね。

竹部:僕らの世代にとっては「キス・キス・キス」の印象が悪かった(笑)。僕、ヨーコさんに3回インタビューしたことがあるんですが、質問を流しているようで、ちゃんと聞いていてツボを得た答えをしてくれる。とても頭のいい人という印象でした。

島村:頭が良くないのに、なまじ勉強できる人が多いからこそ、ヨーコに本当の頭の良さを感じるんですよ。根性が悪いということではなくて、すべての人を見下している印象がありますよね、ヨーコって。それはきっと、自分の方が相手よりも頭が良くて、自分の方が物を知っていると思っているから。他人の話を聞いて勉強する気はない。ビートルズからなにかを学ぼうとする気持ちがあったらあんな態度をとれないはずですよ(笑)。

竹部:たしかにヨーコから下手に出ることはないですよね。

島村:1回もないんじゃないかなと思う。 私らは給料をもらったりするとき、「いつもお世話になっています。ありがとうございます」とか言うじゃないですか。ヨーコはきっとない。ないと思う。死ぬまでそれで行ける人なかなかいないからすごく貴重な人ですよ。

竹部:ジョンもそこがよかったんですかね。自分にこびへつらわない。

島村:それがくだらないことだと思っているんでしょうね。世渡り上手な人ってたくさんいるじゃないですか。それで心がない人。

竹部:ヨーコのソロアルバムを聞いていると、日本人のアルバムだと思わないですよね。英語詞というだけではなくて、完全に日本人という領域を超えていると言いますか。

島村:他者の目線があるっていうことも思ってないでしょ。自分が歌っていいか悪いかも関係ない。この歌は人にどう受け取られるだろうかっていうことも思っていない。マーケティングなしっていうか。「ジョンを目当てにレコードを買ったのに、私の曲が入っていたら、皆さん嫌じゃないかな」と思わないとこがすごい。

竹部:そうですよね(笑)。

島村:この間のメイ・パンの映画の中で「ジョンはヨーコよりも私のことが好きだった」くらいのことを言っているじゃないですか。ジョンがもう少し生きていたらどうだったんだろうって思った。それはどんな仲いい夫婦でも、倦怠期もあるし。

竹部:事件の直前まで連絡を取り合っていたことにも驚きました。

島村:ヨーコから電話がかかってきて、メイ・パンがジョンに取り次いだ瞬間、ジョンの様子が変わって、ヨーコのもとに戻っていったという話。どういう魔術を使ったんだろ。

竹部:それがないとショーンが生まれないので、やはり最初から決まっていたんですかね。ジョンとヨーコのことを考えていると尽きないですよね。

島村:若い頃、ジョンの死のことは必ず小説で書くだろうって思っていたけど、子どもの頃の経験だから、昔と今では考え方が変わるでしょ。あのときはこう思っていたとしても実は違うもので。

竹部:そうなんですよね。「ビートルズのことを考えない日は一日もなかった」は当時のことを思い出して書いてはいるんですけど、いまのフィルターがかかっているんで、当時のままの気持ちではないと思うんですよ。でも、情報がないなかでいかにファンをやっていたかってことをリアルに書きたいと思っていまして。

島村:当時のメインのメディアは月刊誌ですからね。ジョンとヨーコがニューヨークのどこどこに行きましたとか、軽井沢に来ていたらしいとか、数か月遅れの情報しか入ってこなかった。でもいまはポール本人がSNSに挙げてくれたりして、一瞬うれしいって思うけどあまり値打ちは感じられない。

竹部:あまり自分を晒すものではないと。

島村:だからこそジョンが死んでから出た『家族生活』っていう写真集に感動したんですよ。素顔のジョンを見たときの感動と言ったらなかった。軽井沢や上野動物園、香港のタイガバームに行ったときの写真とか、あれこそ値打ちのあるものでした。

竹部:こんなところにもジョンがいたんだみたいな。『家族生活』いいですよね。70年代、80年代は一つひとつのリリースとか活動情報がすごく重かったですね。それがベスト盤であっても書籍であっても。

島村:ネットのない時代は精神的な距離が遠かったです。メンバーはもちろん、ロンドンやリバプールも、東京だって遠かったですよ。初めて東京に来て、日本武道館を見たとき、武道館って本当にあるんだって思って感動しましたから。

竹部:当時は最新情報を得るためにはファンクラブに入るしかなかったですよね。島村さん、シネクラブに入っていたんですよね。

島村:シネクラブ入って、シネクラブのインターナショナルっていう特別会員にもなっていましたから。

竹部:インターナショナルに入るということはかなりのファンということですよ。

島村:最初にイギリスに行ったのもシネクラブのツアーでした。87年か88年だったかな。

竹部:80年代のビートルズファンにとってシネクラブは重要な存在でした。僕は会員ではなかったですが、友達が入っていて、よく「復活祭」にも行っていました。

島村:あの頃、動くビートルズはフィルムコンサートでしか見られなかったんですよ。フィルムなのに前日からドキドキするみたいな(笑)。


島村洋子著『抱きしめたい』

竹部:「復活祭」の熱気も独特でしたね。島村さんは85年にコバルト文庫からで作家デビューしますが、その道のりの中で、ビートルズから影響はあったんですか。ビートルズ関連の曲のタイトルを小説のタイトルにしていますけど。『オール・マイ・ラヴィング』『その時ハートは盗まれた』『抱きしめたい』『あの娘におせっかい』『恋することのもどかしさ』……。

島村:少女小説でいちばん売れたシリーズのが『オール・マイ・ラヴィング』ですから。中高校生相手だから村上春樹さんみたいな書き方じゃないんです。主人公が古めの洋楽を聴いてほしいっていう気持ちでタイトルを付けていたところはありました。担当の編集者からも何も言われなかったし。そのとき、ビートルズに思い入れがあって、編集者になったりメディアに関わろうと思ったわけじゃないんだなってわかった。

竹部:どこでもビートルズファンは少数派でしたよ。その頃はもう東京に出てきたんですか。

島村:東京出てきたのは遅かったので、その頃は東京と大阪を行ったり来たりしていました。でも六本木のキャヴァーンには行っていました。

竹部:キャヴァーンは憧れのお店でしたよね。

島村:なかなかビートルズ好きな人に会えないので、ファンがいっぱいいるんだなと驚いた(笑)。チャックさんがメインだった頃、レディバグの時代です。

竹部:僕もキャヴァーンに行きたくて。最初に行ったのは85年、バイト先の女の子を誘って。未成年だったけど入れた。レパートリーが初期の曲だけじゃないことにも感動して。「ユア・マザー・シュッド・ノウ」とか。こういう曲もやってくれるんだって思った。

島村:「シー・セッド、シー・セッド」とかやってくれましたよね。おじさん、おばさん、楽しそうだった(笑)。あの頃のキャヴァーンは盛り上がっていました。ある日、『サージェント・ペパーズ』を全曲演奏するときがあって、当時はまだサンプリングとかもないから、「グッドモーニング・グッドモーニング」のときなんかは本当に目覚まし時計を持ってきて鳴らしていましたよ。そういうこういう工夫もよかったですよね。今なら、なんでもすぐできちゃうじゃないですか。

竹部:アナログ時代の創意工夫がおもしろい。今も続いてる島村さんのコピーバンドの追っかけはその頃に始まったんですか。

島村:そうですね。その頃は、ビートルズのコピーバンドで食べていけるとは誰も思っていなかった時代。やっている人たちも言っているけど、そういうビジネスあると思わなかった。あれを職業にするのは大変だとは思うけど、やる側も見る側も飽きないという基本があるんじゃないですかね。

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ジョージが私に言った言葉は「Don’t Exicite」


ジョージとクラプトン共演による来日公演パンフレット

竹部:ビートルズは聞くたびに発見がありますからね。それにソロもあるし。やっぱり生音でビートルズが聞けるっていうのはいいですよね。久々にライブを観たくなりました。それで、この対談で忘れてはいけないのが、島村さんがジョージに会った話です。

島村:私が小学館に出入りしているときに、『ビッグコミックスピリッツ』編集部に、ジョージとクラプトンの記者会見の招待状が1枚あったんです。それで、編集部の人に「ジョージ・ハリスンの大ファンなんです」と言ったら譲ってくれたんですよ。わたしが小説家になりたいと思った理由の一つに優先的にコンサートが観られるんじゃないかということがあったんです。ビートルズの来日公演って遠藤周作や三島由紀夫が行っているじゃないですか。小学生の頃、そういうところにコネをもつといいんだと思ったことが、ここで実現した(笑)。

竹部:全部つながっているところがすごい。

島村:それで、着物を着て行くことを決めて、前乗りでキャピトル東京ホテルに泊まったんですよ。ホテルの裏に日枝神社につながる階段があるんですよね。その階段を上がっていったら降りてくる外国人がいて、それがジョージだったんですよ。ジョージは一人で歩いていました。びっくりして、かなり舞い上がっていたんでしょうね。ジョージが私に言った言葉は「Don’t Exicite」。どんな顔していたんだろうなと思って。怖い顔していたんですかね。会えるのは翌日だと思っていたので、不意打ちで来られるとそれは動揺しますよね。

竹部:至近距離というのが驚きです。二人っきりだったということですか。

島村:そう。時間にして3分か5分か。何を話したのかはさっぱり覚えていないんです。しどろもどろだったんでしょうね。すぐにファンに取り囲まれましたけどね。ジョージが記者会見の前日、日枝神社にお参りしたのを知っているのは世界で私だけです(笑)。以来、日枝神社、を信仰して、毎年必ず御札をもらっています。あの日は寒くてジョージは紺色のコートを着ていたんですけど、そのコートでフライヤーパークに立っている写真あって、このコートだよって言える。

竹部:11月から12月にかけてのツアーでしたよね。

島村:記者会見に前にORIGAMIで朝飯食べていたら、クラプトンがひとりでお茶飲んでいました。ジョージは来なかった……。記者会見はキャピトル東急ホテルの真珠の間。着付けをして、いちばん前の席でジョージを見ていました。質問はしなかったんですが。

竹部:それは貴重な経験ですね。

島村:中学生の頃に読んだ『強くなる瞑想法』って本の中に「リアルに想像するとそれが忘れた頃に叶う」って書いてあって、道端に歩いていたらジョージと偶然に会うっていうことを半年くらい想像してみたんです。それが叶ったと思って……。

竹部:『強くなる瞑想法』気になる。最終的には気持ちなのかな。

島村:ジョージの前にポールが来たときも記者会見に行きましたよ。「マッチボックス」歌ってくれました。

竹部:そのポールの記者会見、会場前まで行ったんですが、一般人だったので当然入れず。見られる人がうらやましくて仕方なかったです。

島村:ビートルズに関してはやるだけのことやったと思う。自分を褒めてやりたいぐらいの気持ちはありますね。

竹部:ジョージの公演はいかがでしたか。

島村:全公演行きましたよ。2週間で10公演くらいありましたよね。東京、横浜、大阪、名古屋、広島。日帰りで戻らないといけないときはアンコールの最中に会場を出たり。あのツアーは「アイ・ウォント・テル・ユー」から始まったんですよね。すごくよかった。

竹部:クラプトンのバンドだったからちょっとおしゃれなサウンドだったのがちょっと戸惑いましたが、来てくれただけでうれしかったですよ。僕は東京ドームで2公演見ました。

島村:ジョージもひげがなくて、カッコいい時期でした。

竹部:そもそもなぜジョージなんでしょうか。

島村:私、前に立つ人があまり好きじゃないので、ポールとジョンは私の担当ではないと思ったんです。ジョージは、歌っているときでも自分から後ろに下がっていく感じがいいなとか(笑)。「俺が、俺が」という姿勢が一切ない、そういうところに惹かれますね。ジョージはアイドルのようにかっこいいんですけど、中身が複雑。だから理解するのが大変なんですよ。いろいろな気づきをくれる人でもありましたからね。声もやさしいし。あとは、アジア的な人ですよね。

竹部:ジョージと言えばインドです。

島村:今だと、映画からインドのエンタテインメントやカルチャーやデザインに興味を持つ人がいるかもしれないけど、わたしが中高生の頃はそんなものはないわけで。それでもアジア、インドに目を向けたのは確実にジョージのおかげです。シタールの音色も好きですから。『バングラディシュ・コンサート』の映画でも1部の演奏もちゃんと見ますよ(笑)。

竹部:それこそ修行と言われる、ラヴィ・シャンカールのシタール演奏……。

島村:落ち着くと言いますか、あれを聞くとすぐ寝られるっていうのもある(笑)。わたしが住んでいる江戸川区船堀にはハリクリシュナ教会があるんです。日本でただ1件だけあるのが船堀。ジョージが好きでハリクリシュナ教会のある場所に住んでいるのかと思われがちなんですが(笑)、本当に偶然。駅前でインドのお坊さんが路上ライブやるときがあって、それをよく聞いているんです。インドには行けないからすごくうれしくて。お釈迦様は自分のやっている仏教はインドでは廃れるだろう、でも離れた島で自分の仏教は伝わるだろうって言っているんですよ。それが私たちなのかなと思うんです。

竹部:なるほど。ちなみに僕も江戸川区出身なんです……。ジョージが感じられる街なんですね。こうやって話を聞いていると、本当にジョージに会えてよかったですね。

島村:本当に。ひとりっきりで道を歩いているところになんか、なかなか会えないですからね。私にとって大切なひとはジョージ・ハリスン、江夏豊、錦織一清。3人とも会うことができたんですから、幸せな人間ですよ。

竹部:今日はありがとうございました!


ジョージの生家、アーノルド・グローブ12番地にて