戦国時代の食事を再現したもの、質素ながらも栄養は豊富だ / credit:PRTIMES

戦国武将はドラマや小説などで幾度となく取り上げられており、非常に浪漫の溢れる存在です。

しかしそんな武将たちも人間である以上、ドラマや小説ではあまり描かれないものの毎日食事をして、戦国の世を生き抜くための英気を養っていました。

果たして武将はどのようなものを食べていたのでしょうか?

また現在の食事とはどのようなところが違っていたのでしょうか?

本記事では武将たちの食事について、日常時、行事の時、戦の時の3つに分けて紹介していきます。

なおこの研究は名古屋経済大学自然科学研究会会誌 第49巻 第1・2号に詳細が書かれています。

目次

日常時は一日二食で汁かけ飯を食べていた戦国武将儀礼的な宴会で食べられた本膳料理機能性だけでなく、験担ぎも重視された戦場メシ

日常時は一日二食で汁かけ飯を食べていた戦国武将


徳川家康が食べていた食事を再現したもの、家康は薬学に精通していたこともあり栄養のバランスは非常にいい / credit:介護ポストセブン

戦国時代と現代の食事の違いを語るとき、一番大きな違いは一日二食であったことです。

現代と同じように一日三食に変わったのは江戸時代ですが、起源は戦国時代に遡るとも言われています。

戦国時代の武士たちは戦に明け暮れており、日常時では朝夕の2食でも十分であったものの、戦や移動などでエネルギーが必要になると食事量が不足し、間食を取るようになりました。

その間食が一般層にも普及していき、一日三食が一般的になったといわれています。

当時は精白した米を食べることができるのは公家層に限られており、武士や庶民は玄米に麦やアワを混ぜて食べていました。

日本人は古来よりさまざまな調理法で米を食べており、「焼米」、「蒸飯」、「粥」などが一般的だったのです。

特に粥は固粥と汁粥に分けられ、それ以外にも麦やヒエ、アワなどを入れたものが多かったといわれています。

また後述するように武将は行事の時には豪華な食事をしていたものの、日常時には質素を重んじ、ご飯に味噌汁をかけた汁かけ飯が一般的でした。

また、戦国大名である上杉謙信(うえすぎけんしん)は一汁一菜で知られており、食べる量もかなり少なかったそうです。

豊臣秀吉も若い頃は質素な食事を好んでいましたが、出世してからは健康に気を使うようになり、お粥とダイコンを好んでよく食べるようになりました。

このように室町時代の食事は多岐にわたり、現在でも私たちが食べる野菜や果物、魚介類、鳥獣類などが多く含まれていましたが、農耕に使う牛や、戦に使う馬を基本的に食べることはなかったようです。

この時代の食事は豊富で多様性に富み、現代の食生活ともつながりがあります。

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儀礼的な宴会で食べられた本膳料理


信長が家康をもてなすときに出した本膳料理、山海の珍味が多く並んでいる / credit:安土 文芸の郷

それで戦国武将は行事の時はどのような食事をしていたのでしょうか? 室町時代に完成した「本膳料理」は武家の儀式料理として根付き、和風料理の基礎を築きました。

本膳料理は武将のもとに客がやってきたときに客をもてなすために振舞われる料理であり、宴会の要素もあったものの、かなり儀礼的なものでもあったのです。

宴会の形式は主人と客が挨拶をする式三献の儀式に始まり、その後宴会に移りました。

料理の配置は地域によって異なり、一部は折詰めとして土産として持ち帰られていたのです。

本膳料理は20品目を超える豪華な料理を夜通しかけて大勢で共食し、非常に大掛かりなものとなっていました。

織田信長が徳川家康をもてなすために本膳料理を例に取ると、本膳(中央前の膳)にはタイの焼き物やコイのなます、二膳(中央左の膳)にはウナギの丸焼きや鯉汁、三膳(中央右の膳)にはキジを焼いたものやツル汁、与膳(前方左の膳)には鮒汁やシギつぼ(ナスの真ん中をくり抜き、酒で煎ったシギ肉をつめて柿の葉で蓋をし、藁でからげた料理)、五膳(前方2番目の右の膳)にはカツオの刺身や鴨汁などといった料理が並んでいます。

前方1番目の右の膳にはお菓子が置かれており、美濃柿やお餅などがあります。

ちなみに当時は美味な鳥や魚をまとめた言葉として「三鳥五魚」という言葉が使われており、それはツル・キジ・ガン(三鳥)とコイ・タイ・スズキ・カレイ・サメ(五魚)を指しています。

当然この本膳料理にもふんだんに使われており、いかにメジャーなものであったのかが窺えます。

なおこのメニューを決定したのは明智光秀であり、京や堺といった場所に出向いて食材の調達を行いました。

しかし信長はそのメニューを見て大激怒し、光秀をもてなす役から外したのです。

何が気に障って光秀がもてなす役から外れることになったのか現時点ではわかっていませんが、この一件がきっかけで光秀は本能寺の変を起こしたともいわれています。

この本膳料理は明治時代以降衰退し、現在の日本ではほどんど見ることがありませんが、現在の会席料理にその名残を見ることができます。