<経験人数=“戦闘力”>非常階段や路地裏でも…橋本環奈が「平成ギャル」を演じる朝ドラ『おむすび』では絶対に描けない“渋谷ギャルの裏の生態”

9月30日にスタートした朝ドラ『おむすび』は「平成ギャル」にフィーチャーした異色作。だがNHKでは当時のギャルたちの“闇”の部分は描けないだろう。そこで元ギャル男で、なおかつ渋谷系ファッション誌のライターを約10年間務めた筆者が“渋谷ギャルの裏の生態”を語る。

元ギャル男が語る“渋谷ギャルの裏の生態”

橋本環奈がヒロインを務める新・朝ドラ『おむすび』。2004年からスタートした物語は、橋本がギャル姿に扮することや、ギャルタレント・みりちゃむらが演じる「ギャル軍団」が登場していることで話題沸騰中。

おおむね派手で明るく元気な「平成ギャル」のポジティブ要素にスポットが当てられている。

ただ、『おむすび』で描かれるギャル要素はあくまで“表”の顔にすぎず、ギャルの“裏”の顔も知らないと、当時のギャルカルチャーを正しく理解したとは言い難い。

そこで、かつてはプライベートでギャル男をしており、渋谷系ファッション誌に約10年間携わっていた筆者が、ギャルカルチャー最盛期の1990年代後半から2000年代前半の、“渋谷ギャルの裏の生態”を振り返っていきたい。

まず、ギャルはいつも渋谷でたむろしていたというイメージがあるだろうが、それはあながち間違いではない。

渋谷ギャルたちは主に東京・神奈川・千葉・埼玉に自宅があるのだが、夏場などは家に一度も帰らずに、1カ月間、渋谷界隈にい続けたというギャル集団もちらほらいたほど。

旧・宮下公園で野宿したり、カラオケでオールしたり、近場の“友達”の家に泊めてもらったりしていたのだ。

ちなみに彼女たちは家出をしているわけではないのだが、誇張や比喩ではなく、本当に40日以上、一度も家に帰らなかったというギャルも知っている。

風呂はどうしていたのかと思うかもしれないが、ギャルのトレードマークといえば焼けた肌の「ガングロ」――週に3~5回はそのガングロを維持するために日サロ(日焼けサロン)に通い、そこでシャワーを浴びているので衛生面は最低限保っていたのである。

また、もちろん“友達”の家に泊まったときもシャワーを借りられる。

さて、あえて“友達”と意味深長に書いていたのには理由がある。

「平成ギャル」というと性に奔放なイメージもあるだろうが、たしかに貞操観念がゆるゆるな子は多く、泊めてくれる“友達”というのは、男友達だったりナンパ男だったりすることもよくある。

言わずもがな、その晩はカラダの関係を持つ。恋愛感情はなくとも一宿一飯の恩義として、“友達”から求められれば性行為に至るのである。 

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経験人数=“戦闘力”という価値観のギャル

かつて渋谷ギャルだった現在40代ぐらいの女性たちが当時を振り返るインタビューを受け、「ギャルは意外と恋愛には一途だった」といったコメントしているのをたまに見かけるが、それは3割ホント・7割ウソだと筆者は思っている。

確かに彼氏がいるときは恋人一筋で浮気をしないというギャルもたくさんいたが、逆に彼氏がいても浮気をバンバンしているギャルも同じぐらい多かった。

また、彼氏がいるときは「一途」「一筋」だが、いないときは遊びまくっているというタイプも多くいた。

ナンパで知り合った男をはじめ、友達の友達や地元の先輩など、人脈を無限に広げていくというのもよくあるパターン。

『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」のようだと感心したことを覚えている。そのため、経験人数が50~60人程度のギャルはざらで、三桁に到達していたギャルも少なくない。

筆者は、「この夏、仲間うちで誰が一番男と打て(ヤレ)るか」を競い合っていたギャルグループを何組も見たことがあり、ひと夏で約30人の男を喰ったという猛者も知っている。

このような勝負に興じる一部のギャルたちにとって、経験人数は“戦闘力”のようなもので、多ければ多いほど“強め”という価値観があったのだろう。

そして、そういった経験人数=“戦闘力”という価値観のギャルたちは、性行為をした場所も武勇伝のように語るフシがある。

ナンパされてカラオケやクラブのトイレで即するというのは“あるある”のレベルで、公園や神社にある茂みに隠れてしたり、雑居ビルの非常階段や人気(ひとけ)のない裏路地でしたり、そういった非常識なエピソードを持つギャルは枚挙にいとまがない。

イベサー(イベントサークル)のミーツ(イベント打ち合わせ)の後にギャル2人:男8人でカラオケに行き、2人で男たちに順番でしてあげたという話や、某テーマパークや水族館で他の客がいる中でしたという話を、体験した本人から自慢げに語られたこともあった。

一部のギャルたちはそういった不謹慎極まりない行為を、“破天荒で攻めている”というように都合よく好意的に脳内変換していたのだろう。