13歳で演歌歌手デビュー
中学生になってからも、二人は地元のコンテストに出場を続けていました。その執念にも似た情熱が、出会いを引き寄せます。あるコンテストで審査員を務めていた作詞家の石坂まさをさんから、声がかかったのです。
学校が長期の休みに入ると東京にある石坂さんの家に泊まり込んでみっちりとトレーニングを受けました。悲願のデビューは中学2年生の時。ついに夢を叶えた母と娘は、「やっとデビューできるんだね!」と手を取り合って喜びました。
デビュー曲『十六恋ごころ/あなたに片想い』では、作曲も担当。小学校高学年のころから独学で作詞作曲をするようになり、それを石坂さんから評価されてのことでした。
「日常とはまったく違う世界で生きさせてくれるのが創作の世界で、自分が解放された感覚になれるんです。現実にどんなにつらいことがあても、創作をしている時は違う世界で生きている感覚があって、すごく楽しいですね」
「創作の世界」で磨かれた才能が発揮されるのは、もう少し後のこと。デビュー後、プロモーションで地元の福岡県内各地を巡った母と娘は、甘くない現実を知ります。CDがまったく売れなかったのです。
1年ほど「ドサ回り」を続けた川嶋さんは、母親と相談して大きな決断をくだしました。
「単身で東京に出て、J-POPで勝負する」
4歳のころから慣れ親しんだ演歌から離れるのは怖くなかったんですか?と尋ねると、川嶋さんは首を横に振りました。
「私にとっては手段の一つなんですよね。とにかく母の夢を叶えるために何を選ぶか、その最善の道を探していくっていう。だからJ-POPへの抵抗はまったくなくて、これが次の生きる道だと思って上京しました」
東京では母親の知人の家に居候しながら、芸能人が通うクラスがある堀越高校に進学しました。東京に、ツテはありません。雑誌『Deview』『Audition』などに掲載されている募集にデモテープを送る日々。しかし二次審査にすら進まないことも多く、孤独の中でどんどん煮詰まっていきました。
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「背水の陣」で渋谷の路上へ
2002年、高校1年生の2月、東京・四谷の橋の上で真冬の冷たい風に吹かれながら、川嶋さんはマイクを握っていました。
「もうこれしかないっていう背水の陣でした。路上ライブでダメだったら、夢を諦めて福岡の母のもとに帰ろうっていう気持ちでした」
この時、3つの目標を掲げます。
・路上ライブ1000回
・自主制作CD手売り5000枚
・渋谷公会堂でのワンマン・ライブ
四谷を選んだのは、当時、居候していた家の近くだったから。すぐに「会社員の人ばかり」だと気付き、「もうちょっと人がいるところに飛び込まないと、変われないかもしれない」と渋谷に場所を移しました。
四谷と比べると、渋谷の人通りは桁違い。歩いている人たちも若者が多く、賑やかです。その路上で歌うのは、「毎回怖かった」と言います。酔っぱらいに絡まれたり、怖い人に脅されたりして、演奏を中断せざるを得なかったこともあります。それでも毎日、渋谷のストリートで歌い続けました。
「これは母と似ているところだと思うんですけど、負けず嫌いなんです。その状況に勝ちたい、自分に勝ちたいという思いだけでした」
路上ライブをしている当時の川嶋さん
この当時、ストリートに出ている女性のアーティストは珍しかったそうです。川嶋さんの歌、そして川嶋さん自身に興味を持ち、足を止める人が少しずつ増えていきました。
その中の若者数人と言葉を交わすようになり、食事に行くようになりました。川嶋さんはそこで、「母のために歌手になりたいんです」と打ち明けます。真剣なその思いを聞いた若者たちは、川嶋さんのサポートを買って出るようになりました。今も関係が続くそのうちの一人が、当時大学生で現在は川嶋さんが所属するつばさレコーズ代表取締役社長を務める佐藤康文さんであり、同じく当時大学生でのちに「I WiSH」のパートナーになるnaoさんです。
「彼らに出会ったのは渋谷に移ってほんとにすぐだったので、最初は私も警戒していました。田舎から出てきた私からすると、東京の人たちって怖かったんです。でも、東京で初めて気楽に話せる仲間になりました」