【取材】川嶋あいの半生。3歳で養子/『あいのり』主題歌で16歳にデビュー/命日「8月20日」のライブ開催。

夢のような依頼と過酷な現実

渋谷で歌い始めてから数カ月、たまたま通りがかったというレコード会社の人や芸能事務所の人から名刺を渡されることはあったものの、目立った変化もなく日々は過ぎていきました。その日常を一変させたのは、恋愛バラエティ番組『あいのり』のプロデューサーからの依頼です。

「路上で歌っていた楽曲に『あいのり』の世界観の歌詞をつけてくれないか」

「渋谷で歌っている女の子がいる」という噂がプロデューサーの耳に入ったのが、たまたま新しい主題歌の募集を始めたタイミング。「新人もいいかもしれない」という話になり、プロデューサーは渋谷に足を運びます。そこで川嶋さんが中学3年生の時に作詞作曲した『旅立ちの日』を聞き、オファーに至ったそう。福岡にいる時から『あいのり』を観ていた川嶋さんは、依頼を受けた時、「まさか!」と仰天しました。

ただし、主題歌はコンペで選ばれます。これまでコンテストで受賞したことも、オーディションを突破したこともなかった川嶋さんは、「自分が受かるはずない」と思っていました。それでも「夢のよう」と感じたこのチャンスに懸けて、歌詞を考えました。

番組側とのやり取りは、川嶋さんのために学生起業して芸能事務所「ダブルウィング」を立ち上げた佐藤さんが担いました。番組側から何度も歌詞の修正依頼が入り、川嶋さんはそのたびに書き直しました。

2、3カ月経ったころ、「最終候補に入っている」と連絡がきます。母に報告すると、舞い上がった母はフジテレビに電話をかけて、「このたびはうちの娘の楽曲を選んでいただき、ありがとうございます」とお礼の電話をかけました。川嶋さんは「まだ決まってないから!」とたしなめたそうです。

それからわずか数カ月後の8月20日、母が病気で急死してしまいます。最愛の人を亡くした川嶋さんは放心状態のまま、音楽活動を続けます。それができたのはきっと、「歌手になりなさい」という母の強い思いが刻み込まれていたからでしょう。

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「I WiSHのaiさんですよね?」

9月の頭、主題歌が『明日への扉』に決定したと連絡を受けても、「信じられない。絶対ウソだ」という思いが拭い去れず、素直に喜べませんでした。9月20日の金曜深夜、関係者みんなで『あいのり』を観て、『明日への扉』が流れ始めた時、初めてすべてが現実に起きたことだと実感できたのです。全員で泣きながら、お互いを称え合いました。

この日から、川嶋さんの二重生活が始まります。「I WiSH」は、ファーストシングル『明日への扉』でソニーミュージックから翌年の2月14日にデビューすることが決定していました。「I WiSH」でaiと名乗っていた川嶋さんは、自分がaiだということを伏せる約束になっていたのです。

『明日への扉』は、番組で流されると同時に脚光を浴び、日本中の若者たちが歌詞やメロディを口ずさむような歌になっていきました。CDは最終的に90万枚を超える大ヒットを記録したことからも、その人気ぶりがうかがえるでしょう。

その状況でも、川嶋さんは渋谷のストリートで歌っていました。自分で立てた3つの目標を、何一つ達成できていなかったからです。前述したように、『明日への扉』は『旅立ちの日』の歌詞を変えたもの。路上に出た時から『旅立ちの日』を歌い続けていたから、共通点に気付く人もいます。

「I WiSHのaiさんですよね?」と聞かれると、川嶋さんは「違います」と答えていました。「ウソをついて申し訳ない」という気持ちと同時に、妙なリアリティを感じていたと言います。

「路上ライブ1,000回を目指して、渋谷で歌っているのが現実の世界で、リアルな自分なんですよね。『あいのり』の主題歌を歌っているaiはバーチャル的な感覚でした」

2003年は、転機の年になりました。2月にメジャーデビューシングルをリリース。5月には、川嶋あいの自主制作CD5,000枚を売り切りました。そして8月、渋谷公会堂で川嶋あいのワンマン・ライブを開催。そのステージ上で、ついに「I WiSH」のaiだと告白しました。


I WiSHのライブの様子

ここから、川嶋さんはシンガーソングライターとしての階段を駆け上がっていきます。2005年3月、ソロ活動に専念するために「I WiSH」を解散すると、4月にシングル、5月にアルバムを発売。どちらもオリコンベスト10にランクインしました。2年前には誰も知らなかった十代の女の子が、メジャーなアーティストと肩を並べた瞬間でした。

10年間埋まらなかった心の穴

その後も、2007年に出した11枚目のシングル『My Love』が週間オリコンチャート初登場5位を記録、2010年にはアメリカの著名なジャズピアニスト、ジョー・サンプルのプロデュースで『I Remember』をリリースするなど、川嶋さんは活動の幅を広げていきます。しかし、華やかな舞台の裏側で、胸の内に空いた穴は埋まっていませんでした。

「新しい曲を作る時も、イベントやライブで歌う時も、毎回、精一杯チャレンジしてきました。その達成感はあるんですけど、それを一番共有したい人がいない。常に『母がいないのに、歌っていて意味あるの?』と自分に問いかけていました。母が亡くなってから、どこに向かって歩んでいったらいいのか、分からなくなっていたんです」

この感覚は、「I WiSH」でデビューしてから10年ほど続いたと言います。それではいけないと思うようになったきっかけは、2003年から続けてきた、母の命日にあたる8月20日のライブ。川嶋さんにとって特別な日に開催するライブは、ファンにも、スタッフにも特別だと気づいた時、川嶋さんはハッとしました。

「8月20日のライブを10年続けた時、ファンの皆さんがどれだけこの日を大切に思ってくれているのか、わかったんです。毎回土日にかぶるわけじゃないから平日の時もあるのに、全国から集まってくれるんですよ。韓国や中国から来てくれるファンもいます。スタッフのなかには、8月20日が誕生日なのに、私に気を遣って黙っている人もいました。それで、自分のことしか考えてなかったって気づいたんです。母が亡くなってからも、つらいことがあっても頑張ろうと思えたのは、支えてくれる人がいたから。その恩を返していける人間になりたいと思いました」


毎年開催していた母の命日である8月20日のライブ

恩を返すには、どうしたらいいだろう?川嶋さんは、幼いころからずっと母親の笑顔が好きで、「母の気持ちに応えたい」と歌ってきました。母が亡くなった後も、周りの人が喜んでいる姿が見たくて、求められることを表現してきました。

その一方で、自分がやりたいことや伝えたいメッセージを表に出すのは控えていたのです。

川嶋さんは「自分が何かをやりたい、という前に、目の前の人が考えることをやってあげたい、そうすれば喜んでくれるんじゃないか、その想いの方が勝っちゃって、自分とあまり対話をしてなかった」と話します。

そこに目を向けることが、感謝の気持ちを届けるための一歩になるかもしれない――。そう閃いた川嶋さんは、自分を変えました。

「自分の思いを、自分の言葉で発信することを始めました。心の奥底に沈んでいた自分の気持ちを一つ、ひとつすくい上げていくんです。作詞をするのも、語尾とか細かな言葉の選び方にも悩むようになって、以前よりすごく時間がかかります。でもそれが楽しくて、母のことを考える時間が減りました」

期待に応えることを優先するのではなく、自分と向き合う。自分の言葉で伝える。自分のために生きる。そう意識することで「母から独り立ちできたのかもしれません」と、川嶋さんは笑顔を見せます。

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「目には見えない絆」

8月20日のライブは、母の命日であると同時に、ファンやスタッフへの恩返しの場になりました。しかし、川嶋さんは2023年を最後にこのライブを中断することを決断しました。

数年前から声帯の不調に悩んでいた川嶋さんは、2022年に手術を受けました。それは「最後の賭け」でしたが、思い通りの結果は出ませんでした。

「自分の音楽にこだわりが強くなったからこそ、自分が理想とする表現ができなくて、妥協するのがイヤなんです。思うように表現できない状態でファンの皆さんに歌を届けることはどうしてもできないと思って、2023年を最後にすると決めました。2023年8月20日のライブはとても愛おしい時間で、永遠のように感じる一日を皆さんと一緒に作れたことがすごく幸せでしたね」

8月20日のライブは終わってしまいましたが、歌うことをやめたわけではありません。2024年4月には、新曲『絆』をリリースしています。これは、国交樹立50周年を迎えた日本とベトナムの友好ソングとして書き下ろしたもので、川嶋さん自身もベトナムを訪ねたほか、日本やベトナムの関連イベントで歌声を披露しています。この歌には、「心の線を引くのはやめよう」という思いが込められています。

「自分と何かが違うというだけで心の線を引いて、分かり合えなくなってしまうことってありますよね。私もそんな自分をどうにかしたいなって思う瞬間があって。もっと心と心でその人のことを見て、感じて、言葉を交わしてみたら、きっとわかり合える部分があると思うんです。そういう目には見えない絆を大切に生きていけたらなっていう願いを込めました」

振り返ってみれば、川嶋さんは生まれてきた時から「目には見えない絆」に支えられてきました。乳児院や児童養護施設のスタッフ、養父母、路上で出会った仲間たち、そして大勢のファン。

「この歌は、川嶋さんの歩みにも重なっていますね」と伝えると、「そうですね」とほほ笑みました。

「本当にいろいろな人との絆を感じています。人はひとりじゃ生きられないから」

(文:川内イオ)