「思い出す」ことは、自分自身を支える方法だと思う『あのころの僕は』小池水音 インタビュー

二〇二〇年、初めて書いた小説「わからないままで」で第五十二回新潮新人賞を受賞。新人らしからぬ端正な文章の美しさで注目を集め、三作目「息」は三島由紀夫賞の候補作に。

「思い出す」ことは、自分自身を支える方法だと思う

二〇二〇年、初めて書いた小説「わからないままで」で第五十二回新潮新人賞を受賞。新人らしからぬ端正な文章の美しさで注目を集め、三作目「息」は三島由紀夫賞の候補作に。デビュー以来、大切な何かを失った人びとの痛みにしずかに寄り添いながら言葉を紡ぎつづけてきた小池水音さんが新作『あのころの僕は』で主人公に選んだのは、わずか五歳で母親を亡くしてしまった男の子だ。失ったものの輪郭をじっくり確かめていくような、誠実な態度に支えられた物語の背景にあるものとは?

聞き手・構成=倉本さおり/撮影=中川正子

―― 新作『あのころの僕は』は、幼稚園生のときに母親を亡くしてしまった男の子・天 ( てん ) が、高校生となった現在地から当時を振り返りながら言葉を探り当てていくという、とても繊細で緻密な作業のうえに成り立っている小説です。淡々と積みあげられていく景色の鮮やかさから、「家族を喪 ( うしな ) う」ということの意味がゆっくりと、確かな奥行きを伴って表れる。余韻のすばらしさに読後しばらく声が出ませんでした。

 ありがとうございます。言葉がひとつの実体としてたちのぼる瞬間と、その過程となる時間がこの小説のなかで描けていたらいいなと。

 僕は大学生のときに実姉を亡くしているのですが、彼女には息子がひとりいて。つまり僕にとって甥っ子にあたるその子は、作中の天と同じくらいの歳のころに母親を亡くしているんです。ひとくちに「家族を喪う」といっても、彼は僕とはまったく違う以後を経験してきている。彼の姿をこの十年間見つめつづけているうちにいろんなことに気づかされました。例えば、僕の父親が酔うとくだを巻いてしまうタイプなんですけど、その父親に対して「俺はネガティブなことは考えないようにしているんだ」って中学校二年生ぐらいの甥っ子がさらっと言った瞬間があって……(笑)。ああ、そうだよな、そうやって生きるよな、と。子どもって、大人が持て余しているような、もしこうだったらといった「たられば」の契機すら与えられていないというか、とにかく今日その日その瞬間を全身で生きている存在なんですよね。大人とはまた異なる強さや知恵といったものがあるんだというふうに目を見開かされた感覚がありました。

―― それぞれの家庭から持ち寄られるお弁当の様子や園内で催されるハロウィンのコスプレイベントでのすったもんだなど、幼い子どもにとってはめくるめくような出来事の数々と、それに付随して豊かに伸び縮みする感覚もすごく濃 ( こま ) やかに描かれています。

 実は大学時代に幼稚園でアルバイトをしていて、三年間で合計八十人くらいの子どもたちと一緒に日々を過ごした経験があるんです。この小説をかたちづくっている景色の多くはそこで得たものかなと思っています。ちょうどそのバイトを始めた直後に僕自身が姉という近しい家族を亡くし、大学の友達とのつきあいとか、それまでの日常みたいなものがすごく遠く感じるようになった時期だったんですけど、幼稚園での時間というのは当時の自分の心境にとって非常に心地よくて。最初は週に一日だけだったのが、週三~四で通うようになって、サマーキャンプに同行したりなんかもしていました。

 境遇はどうあれ、子どもという存在が出てくるだけで、じっと読んだり書いたりしている身からは遠い何かがどうしても生まれてくるんですよね。それに引っ張られて書きあげることができたという感覚はあります。普段とは違う論理とか、感情の足し引きみたいなものが起きていて、それはやっぱり目新しく楽しいものだった気がしますね。

―― 天は母親を亡くして以来、お弁当が必要な日は幼稚園の同級生の親たちに代わる代わるつくってもらっていて、それがきっかけでイギリスから転入してきたさりかちゃんと仲良くなる。さりかちゃんのお母さんに手渡された、透明なタッパーに詰められた色とりどりのサンドイッチはそれだけでとても魅力的なんですが、中でもコンビーフのサンドイッチはまさに「飛行機に乗ってやってきた」味といった体 ( てい ) で五歳の天を強烈に魅了する。あの場面の輝かしさは本作の数あるハイライトのひとつです。

 うれしい。あのサンドイッチは読んでくれた方から「食べたい!」と言ってもらうことが多いんですが、実は僕もまだつくったことがなくて。

―― えー! てっきり実際につくった味かと……。よだれを垂らしながら読んでいました(笑)。

 ふふふ、あくまで想像の味です。おいしいといいなと思うんですけど。コンビーフって好きなんですよね。ソーセージやハムの一歩先みたいな、日常で出遭わない感じがあって。

 ちなみに幼稚園生のときに僕自身の母が一時期入院していたことがあって、代わりに友達のお母さんが順繰りにお弁当をつくってくれたという作中のエピソードは実体験でもあるんです。それ自体は本当に本当にうれしかったはずなんですけど……当時はけっこう好き嫌いが多かったのもあって、「このちくわとキュウリを組み合わせる感じ、違うんだよな」とか、こまごま思っちゃうんですよね。卵焼きの味、こっちかぁ、みたいな。お弁当って、その家庭の文化や生活それ自体が詰め込まれているような側面があるから、子どもにとってはものすごく差異を、言い換えれば「他者」を感じやすいというか。僕自身も書いていて興味深かったところです。

(広告の後にも続きます)

世界の寂しがり方はひとつじゃない

―― さりかちゃんが天にもたらしてくれるものといえば、テレビゲームの存在も欠かせません。日本語をまだ上手く扱えないはずのさりかちゃんが、あらん限りの集中力と情熱をもって分厚い攻略本を読みこなし、「ゼルダの伝説」とおぼしきゲーム内のフィールドを自在に駆け回っていくさまは言い知れない昂揚感がありました。

 そう、あれはゼルダです( 笑)。NINTENDO64、Wii、Switchと、うちの家族は代々みんなずっとゼルダをプレイしてきて。昔は攻略本から情報を得ていたのが、いつのまにかネット上に攻略ページができて、さらにYouTubeの攻略動画みたいなものに移行していった。いま考えると攻略本って特殊な文化ですよね。単にゲームを進めるのに必要な情報とか数値とかが羅列されているだけじゃなく、もうちょっとロマンティックなところがあったというか。例えば、キャラクターの背景や、作中世界の文化や宗教なんかを深掘りするコラムがあったり。もちろん必要な情報に誰もが気軽にアクセスしやすい今のほうがゲーム自体は格段にやりやすくなったとは思うんですが、当時の攻略本に詰め込まれていた広がりのある何かというのは失われたんだろうなという気はします。

 天は母親を病気で亡くしたけれど、さりかちゃんも離別という形で父親を突然失ってしまった。それは二人にとって、それまで生きていた世界から放り出されるようなものなんだろうなと。さりかちゃんがあのゲームに傾けるすさまじい情熱は、そのまま失った世界の代わりとなるものを貪欲に求める気持ちなんですよね。その切実さに天も呼応していたんだと思います。

―― 子ども同士が急速に仲良くなっていく一方、天と父親との関係はどこかぎこちない。父は母との思い出のある場所に天を連れて旅行に出かけますが、そこでも二人の想いは微妙に重ならない。むしろ決定的なズレがあることを天は思い知ることになるという。

 父親は父親で、本当に切実な想いで連れていったんだろうと思うんですけど。やっぱり僕自身も甥っ子がどれだけ自分の母親のことを覚えているのかっていうのをなんとなく窺ってしまうんですよ。どんなに幼くても大事なエッセンスだけはきっと記憶に残っているはずだと思いたいんですよね、大人たちは。

 天の父親は、自分自身も妻を亡くし、かつてそこにあったはずのぬくもりみたいなものがすこしずつ遠ざかっていってしまうような感覚がある。それをなんとかつなぎとめたくて、天に思い出してほしくて連れてきたんだけれど、そこはやっぱり本人にしか触れ得ないものなんですよね。いくら大人が求めたところで、子どもはむしろ大人が喜ぶことを言うようになっちゃったりもします。

 天の中にある母親の記憶って、例えば母親と一緒に見た日の出だったり、その直前のブルーアワーだったり、母親そのものを示すエピソードではないんです。どれもほんの一瞬の短い時間でしかないですけれど、おそらく天にとってはほとんどそれが全てということになる。「いなくて寂しい」ということとはまた違った世界の寂しがり方みたいなものが出てくるんだろうなと。それは書き手である僕にとってもちょっと切ない気づきでした。