宇野宗佑

岸田文雄前首相の在職日数は1000日を超え、戦後8位の長期政権となった。ただし第1次岸田政権においてはわずか38日で内閣総辞職をしており、これは歴代最短記録でもある(直後の特別国会で再任)。

では、通算の在職日数が歴代最短の首相は誰かというと、それは1945年8月15日の玉音放送から2日後に首相となった東久邇宮稔彦王で、在職日数は54日だった。

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東久邇宮は戦後処理の手続きをひと通り行った後、GHQ(連合国軍総司令部)による内政干渉への抗議の意思を示して総辞職している。

2位は1994年に就任した羽田孜で、連立政権の不安定さが仇となり在職日数は64日。3位は体調不良により退陣した石橋湛山の65日で、これらはいずれももっともらしい理由があった。

ところが、4番目の短さとなった宇野宗佑(在職日数は69日)の退陣理由は、自業自得と言うべきものである。

自由民主党の公式サイトで「宇野宗佑総裁」の項目を見ると、宇野は1989年7月の参院選惨敗を受けて「すべての責任は私にある」と述べ、退陣したと記されている。そして敗北の理由としては「リクルート問題、消費税問題、農産物自由化問題」の3つが挙げられている。

もちろん、これらも大きな要因ではあった。しかし、それ以上に国民の反感を買ったのが、宇野の女性スキャンダルだったことは疑いの余地はない。

同年6月3日に宇野内閣が成立したわずか3日後、週刊誌・サンデー毎日の表紙に〈宇野新首相の醜聞スクープ 月30万円で買われたOLの告発〉の見出しが躍った。

野暮ったい風貌で「そばに来なさい」

その内容は、当時40歳の女性が東京・神楽坂で芸者をしていた1985年ごろに、宇野と金銭を介した愛人関係を結んでいたことを暴露したものだった。

政治家が芸者の「旦那」になって特別な関係を結ぶことは、この当時としては決して珍しい話ではなかった。

表紙に「元芸者」ではなく「OL」と打ったのも、そうした考えがあってのことだろう。それなのに、この件がことさら世間の耳目を引くことになったのは、暴露された内容があまりにも生々しかったからだ。

その記事によると、宇野は「そばに来なさい」と女性を呼び寄せ、彼女がヒザの上に置いた手の人さし指から薬指までをギュッと握って、「これでどうだ」と言い寄ったのだという。

宇野は具体的な金額を言わなかったそうだが、3本指は手当の額を「月30万」と示したものだった。

当初、日本の主要メディアはこの件を無視していたが、米紙ワシントン・ポストが報じると風向きが変わり、「3本指」という印象的なフレーズは、たちまち流行語となった。 当時はちょうどバブル景気の時期でもあり、月30万円はサラリーマンでも役職付きなら手が届きそうな額であった。

そんなお手頃な対価は、宇野のどこか野暮ったい風貌に妙にマッチして、ワイドショーなどは一般的な芸者遊びの相場を示しながら、「宇野がいかにケチ臭いか」とあげつらったりもした。

とはいえ、糟糠の妻がいる宇野にとっては不倫行為に違いなく、それを世の女性たちが許すはずがない。同年暮れの『新語・流行語大賞』において「セクシャル・ハラスメント」が新語部門の金賞に選ばれたように、時代が平成に変わって、男女の関係性も変化しつつあるタイミングでもあった。

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派閥トップでない初の総裁 

また、宇野は前任の首相である竹下登がリクルート事件により失脚したとき、「事件に関与していなかったクリーンな人物」という前提で選ばれた経緯もあった。

首相就任までの知名度は低く、清廉潔白だから要職にふさわしいという世間の認識があった中で買春行為をしていたのだから、これを許せないという声は決して少なくなかった。

3本指で辞任した印象があまりにも強かったため、今となっては政治家としての評価はほぼ聞かれない宇野だが、その一方で、首相就任時の所信表明を久米宏がベタ褒めしたほど演説の達人であった。

俳人として自作の句集を発表し、外相時代には海外からのゲストに向けてハーモニカの演奏を披露するなど、多芸の粋人という側面もあった。それでいて各国の要人から、「はっきりと物を言う初めての日本人」と評価される芯の強さも持ち合わせていた。

マスコミのオモチャにされて退陣となった際も、その心境を「明鏡止水(澄み切って邪念のない気持ち)」と話したのは、宇野の胆力の表れだった。

また、派閥政治が当たり前になっていた自民党において、初めての「派閥トップでない総裁」でもあった。これは軋轢を避けるため、党としての判断によるものであったが、それでも周囲の議員たちが宇野の力量を認めていなければ決して実現しなかったはずだ。

もしも3本指のスキャンダルさえなければ宇野はバブル崩壊に向かう当時の日本を支え、しっかりと舵取りをしていたかもしれない。

文/脇本深八

「週刊実話」10月17日号より

宇野宗佑(うの・そうすけ)
1922(大正11)年8月27日生まれ〜1998(平成10)年5月19日没。滋賀県出身。外交官を目指していたが、戦時中に学徒出陣。戦後2年間をシベリア抑留の被害に遭って過ごした。1951年の滋賀県議会議員選挙で初当選。1960年の衆議院議員選挙で初当選し、閣僚などを歴任した後、竹下登の後任として1989年6月に内閣総理大臣(自民党総裁)となった。