誤字脱字の氾濫。事実関係を無視したデマの垂れ流し。衆参議院議院運営委員会理事会では法案に134カ所ものミスまで…「校正」の不在がもたらすもの

ネット上では、校正者の不在によって誤字脱字や、デマがあふれかえっている。本当にこれでよいのか──? 作家の髙橋秀実氏の新刊『ことばの番人』は、「校正」に注目したノンフィクション。

本書より一部抜粋してお届けする(全2回の1回目)。

うまい文章を書きたければ、誰かに直してもらえばよい

「どうすれば、うまい文章が書けるんですか?」

ある講演会で高校生にそう質問されたことがある。将来は社長になりたいという男子からの素朴な質問で、私は思わず「うまく書こうとしないほうがよい」と答えた。

うまく書こうとするとうまく書けない。うまく書こうと力むからうまく書けないのだと言いたかったのだが、よくよく考えてみると、うまく書こうとしなくてもうまくは書けない。そもそも私自身うまく書けていないわけで、正直にこうアドバイスするべきだった。

「誰かに読んでもらえばよい」

そう、誰かに直してもらえばよいのだ。私の場合、原稿はまず妻に読んでもらう。次に出版社などの編集者、そして校正者が読む。彼らが誤字脱字はもとより事実関係などをチェックし、原稿に赤字を入れてくれる。それを見ながら文章を直し、整えるのだが、そこで初めて「私」に気づいたりするわけで、文章は私が書いたものではなく、彼らとの共同作品なのだ。

チェックすることを「ケチを付ける」などとバカにする人もいるが、彼らは優れた読み手である。文章を読むだけではなく、不特定多数の一般読者はこれをどう読むか、ということも読む。

自分だけではなく一般的な読みまでも読み込むわけで、その視点が入ることで文章はひとりよがりを脱し、公共性や社会性を帯びる。彼らに読まれることによって言葉は練られ、開かれていく。

文章は書くというより読まれるもの。読み手頼みの他力本願なのだ。世の中には優れた書き手などおらず、優れた校正者がいるだけではないかとさえ私は思うのである。

実際、日本最古の歴史書・文学書である『古事記』を撰録した太安万侶(おおのやすまろ)も実は校正者だった。上巻の「序を幷(あわ)せたり」にこう記されている。

旧辞(ふること)の誤り忤(たが)へるを惜しみ、先紀(さきつよのふみ)の謬(あやま)り錯(たが)へるを正さむ
(『古事記 新編 日本古典文学全集1』小学館 1997年 以下同)

『古事記』以前に書かれていた『旧辞』と『先紀』の誤りを正す。つまり彼は過去の文献を校正したのである。

なんでも天皇が『旧辞』などを「討(たず)ね竅(きわ)め、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ」と命じたらしい。文章をよくよく調べて正し、虚偽を削除し、真実を定めて後の世に伝えたいということ。

まさしく校正を命じたということなのだが、『旧辞』や『先紀』などは、いまだにその存在すら確認されていない。原本のどこをどう直したのかわからず、原本があるのかないのかすらわからない。

いずれにしても私たちにとって最初にあるのは校正を宣言した『古事記』。「はじめに言葉があった」と説く聖書と違って、日本では「はじめに校正があった」のだ。

歴史を校正すると言いながら、校正することで歴史が生まれた。考えてみれば、校正するからこそ「原本」や「誤り」「偽り」「真実」などの概念も生まれるわけで、校正がなければ元も子もないのである。

「原稿」も「原(もと)」とあるように「印刷したり発表したりする文章などの下書き」(『講談社 新大字典(普及版)』講談社 1993年)にすぎず、校正を前提としている。そもそも何かを書くというのも何かを正そうとしているようで、すべては校正ではないだろうか。

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改正より校正すべし

ところが、校正は表向き、目には見えない。通常、校正者の名前は表に出ないし、文章のどこをどう直したという痕跡は完全に消されている。はじめから誤りがなかったかのように。まるで著者がひとりで書いたかのように見える。

それゆえ校正者が居ても居なくても世の中は変わらないように思われるのだが、ネットの普及によって彼らの不在が露呈している。

目を覆うばかりの誤字脱字の氾濫。校正者の不在によって誤字脱字が世にあふれかえっているのだ。送られてくるメールは漢字変換ミスのオンパレードで、おそらくは読み返されていないのだろう。

ネット上の書き込みもひとりよがりを超えた罵詈雑言や事実関係を無視したデマの垂れ流し。いっそのこと学校では「国語」ではなく「校正」を教えるべきではないかと思うくらいなのである。

教えるといえば、国立印刷局発行の『官報』には驚かされた。その巻末には毎日のように、正誤表が掲載されている。

連日、法律の条文などの「誤り」が発表されているのである。国会で一字一句審議されて可決成立したはずの条文などに「原稿誤り」があったとして、官報でさらりと訂正しているのだ。

さらに2021年3月の衆参議院議院運営委員会理事会では政府から国会に提出された法案の3分の1(23法案と1条約)に134カ所ものミスがあったと報告された。「カナダ内にあるカナダ軍隊の施設」(「防衛省設置法の改正法案」)とすべきところを「カナダ内にある英国軍隊の施設」と間違えたり、「海上保安庁長官」(「デジタル庁関連法案」)を「海上保安長長官」と誤記したり、「を」(「産業競争力強化法の改正法案」)を「w、」と誤変換したり……。

おそらく改正に気をとられて校正を怠ったのだろう。ミスだらけの法案が審議され、誤った条文が公布され、それを官報で校正する。こうなると最終的に立法を担っているのは国立印刷局ではないだろうか。

文化の衰退。

私は切にそう感じている。そもそも「文化」とは「文による感化」(『学研 漢和大字典』学習研究社 昭和53年 以下同)を意味する。

「武力や刑罰などの権力を用いず」に、文によって「人民を導くこと」。戦争を抑止するのも文化であり、文化が衰退すると暴力がのさばるわけで、世の平和のためにも私たちが心がけるべきは文の校正なのだ。

校正せよ。

世間にそう訴えたいのだが、実務としての校正作業を私はよく知らなかった。

これほどお世話になっているにもかかわらず、校正者の方々とは面識すらなかった。

今さらながら自分が恩知らずであることにも気がつき、とり急ぎ私は日頃の感謝を伝えるべく、校正者のもとへ出向くことにしたのである。