55年前の10月10日に、ロック界に多大な影響を与えた一枚のアルバムがリリースされた。それがキング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの宮殿』だ。インパクトのあり過ぎるジャケットも有名だが、そのアルバムに収録された曲をカヴァーした西城秀樹を「伝説」とさせたのだ。いったい何が起きたのか。
レコードデビュー前に25万人以上を熱狂させた
1969年10月10日、キング・クリムゾンのデビューアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』がリリースされた。
ロバート・フリップが、マイケルとピーターのジャイルズの兄弟とともに活動していた前身バンド、ジャイルズ・ジャイルズ&フリップは、ヒット曲が出ずに行き詰っていた。
そこにマルチ・プレーヤーで作曲もできるイアン・マクドナルド、作詞や照明でバンドのイメージを作り上げるピート・シンフィールド、そしてピーターが抜けてグレッグ・レイクが加わり、5人が揃ったのは1968年のこと。
年が明けた1969年1月、バンド名はシンフィールドが作詞した『クリムゾン・キングの宮殿』から取って、キング・クリムゾンとなる。
難しいフレーズやリズム、複雑な展開を正確に演奏する洗練されたテクニック、即興演奏が生み出す緊張感、シンフィールドの歌詞が描く現実離れした世界観は瞬く間に評判を呼び、レコードデビューも果たさないうちに、キング・クリムゾンは大舞台に立つことになる。
1969年7月5日、ロンドンのハイドパークには25万人以上もの人々が集まっていた。メインアクトはローリング・ストーンズ。メンバーのブライアン・ジョーンズの訃報を受けて急遽、追悼コンサートとなった。
のちに彼らの代表曲となる『21世紀のスキッツォイド・マン』で幕を開けると、その強靭なサウンドに会場の空気は一変。そのまま畳み掛けるように次々に展開していき、わずか40分弱で7曲を演奏した。
最後はサイレン音が鳴り響く中、ほとんど無名に近いバンドに対して、地響きのような歓声と拍手が送られた。
キング・クリムゾンのパフォーマンスは、各メディアで称賛の嵐を浴びた。彼らの名前と評判は広く知れ渡り、3か月後の10月にリリースされたデビュー・アルバムは全英5位の大ヒットとなった。
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雷鳴が轟く中、西城秀樹が熱唱した『エピタフ』
プログレッシヴ・ロックの金字塔と評価の高いアルバム『クリムゾン・キングの宮殿』には、『エピタフ(墓碑銘)』という9分近い大作が収録されている。
『21世紀のスキッツォイド・マン』と並んで、幻想的なメロディや独自の世界観で人気が高いこの曲は、歌詞のなかでも明らかに「死」の世界や、この世の悲劇にも言及していることは明確だった。
当時はカウンター・カルチャーの時代だったこともあり、日本のリスナーにも身近なテーマに感じられたに違いない。歌い出しの歌詞からして、早くも終末感が漂ってくる展開になっていた。
さらに強烈なヴィジュアルによるイラストのジャケットも、リスナーの想像力を大いに刺激した。キング・クリムゾンは、熱心な洋楽ファンの間ではかなり注目されていたのだ。
そんな中、『エピタフ(墓碑銘)』を自分のものにして、のちに後楽園球場のステージでカヴァーしたのが、“ロックの申し子”ともいえる西城秀樹だった。
1979年にリリースした2枚組のライブ盤『BIG GAME ’79 HIDEKI』に収められた『エピタフ』は、激しい雨にみまわれながらも、雷鳴が轟く中で決行されたことで、この日のハイライトになっていた。
コンディションが最悪に近い状態だったので、中止も考えられる状態にあったことは容易に想像できる。実際にライブ音源として使えない曲もあって、2曲ほどはアルバム収録のために、スタジオで追加レコーディングを行ったという。
だが、シンプルで武骨とさえいえる『エピタフ』は、歌と演奏が完全に一体化して、この日にしか表現できない領域にまで達していた。そういう時にこそ、西城秀樹というアーティストは真価を発揮する。
ちなみにこの日、西城秀樹が『エピタフ』の前に歌っていたのは、クイーンの『ドント・ストップ・ミー・ナウ』だった。
本人もスタッフもロックが心から好きで、しかも研究熱心だったからこそ、積極的に洋楽をライブで取り上げていたことがよく分かる。
キング・クリムゾンと西城秀樹。意外な繋がりを感じながら、伝説の『クリムゾン・キングの宮殿』を聴くのもいい。
文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル:左:『BIG GAME ’79 HIDEKI』 (2022年6月24日発売、Sony Music)。右:『クリムゾン・キングの宮殿 SHM-CDレガシー・コレクション1980』(2023年6月7日発売、UNIVERSAL MUSIC)
参考文献
「クリムゾン・キングの宮殿~風に語りて」シド・スミス著/池田聡子訳(ストレンジ・デイズ)