国民的テレビアニメ「ドラえもん」にて、26年間ドラえもんの声を担当した人気声優で俳優の大山のぶ代さんが、9月29日に老衰のため東京都内の病院で死去したことが、所属事務所より発表された(享年90歳)。大山さんに哀悼の意を表し、過去のインタビューや文献から、偉大なる活動の軌跡を振り返りたい。
「ドラえもんへの気合いの入れようは尋常ではなかった」
第7期生として俳優座養成所に入所した大山さんは、1956年にNHKドラマ「この瞳」で俳優としてのキャリアをスタートさせ、多くのドラマやバラエティ番組に出演した。
関係者からその独特な声質が評価され、1957年9月放送の「名犬ラッシー」の吹き替えにて声優デビュー。
その後、テレビアニメ「ハッスルパンチ」「ハリスの旋風」「無敵超人ザンボット3」などの主演声優を務めたのち、1979年に「ドラえもん」にて、ドラえもん役を演じることになった。
その後、26年間にわたり同役の声優を務め上げ、まさに国民的声優となった大山さん。彼女自身、ドラえもんに対する思い入れは相当強かったと、夫・砂川啓介さんは著書『娘になった妻、のぶ代へ 大山のぶ代「認知症」介護日記』の中で触れている。
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彼女のドラえもんへの気合いの入れようは尋常ではなかった。ドラえもんが子供に愛されるキャラクターになるように心を砕き、台本にぞんざいなセリフがあれば、自ら別のセリフを提案することもあったほどだという。すっかり定番となった「コンニチハ、ボク、ドラえもんです」という挨拶も、このようなカミさんの思いから生まれたそうだ。実際、カミさんはドラえもんを心の底から愛していた。
芸能人には、「仕事関係のものは、自宅では見たくない」という人も多いのだが、彼女は正反対。我が家は、瞬く間にたくさんのドラえもんグッズで溢れ返った。各国の民族衣装を身につけたドラえもんのぬいぐるみ、目覚まし時計、クッション、コップ、茶碗、トースター、スリッパ、バスローブ、貯金箱にカレンダー。トイレに入れば手洗いの蛇口までが、ドラえもんになっている。
そのうちカミさんは、素の声までドラえもんそっくりになってきた。夫婦ゲンカをしたときも、あの声で反論してくるので、
「おい、ペコ、ドラえもんになってるぞ」
と僕が言うと、二人とも思わず笑ってしまい、それでケンカはおしまいだ。「ドラえもんは、あたしたちのところに来てくれた息子みたいなものね」
ことあるごとに、彼女はしみじみと、そう呟いていた。(出典:砂川啓介『娘になった妻、のぶ代へ 大山のぶ代「認知症」介護日記』双葉社)
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「“ドラえもんやってるから仕方ないでしょ”っていってるの」
長年のパートナーであった砂川さんとの仲むつまじい様子は、過去のインタビューからも読み取れる。ドラえもん役を担当していた際、彼女が“ドラえもん体型”に近づいたことについて、次のようなやりとりがあったそうだ。
「よくアテレコというけど、アニメの場合は“見てレコ”なのね。無音のフィルムを見て声を合わせるんです。私マイクから離れて声を出すので、すごくお腹が空くの。だから口に出せないほど太っちゃって。ドラえもんの体型にだんだん近づいていくみたい。主人(砂川啓介)に“あと2キロ太ったら離婚だ”と宣言されてるんですよ」(集英社『週刊明星』1980年1月27日号)
「家でも脚を開いておなかを出し、口を横に広げて喋ってるらしいのね。でも、“ドラえもんやってるから仕方ないでしょ”っていってるの」(集英社『週刊明星』1980年1月27日号)
また、1979年ごろにはテレビ朝日の看板番組として高視聴率を記録していた「ドラえもん」だが、その裏には大山さんのたゆまぬ努力があったそうだ。
彼女は当時の様子について「掛け持ちはやらない。好きなタバコも日に20本から10本に、しかもフィルターつけて。刺激のある食べ物は一切食べない」とその禁欲生活を語り、現場スタッフも「ふつう声優サンの場合、リハーサルの当日までセリフに目を通すことはない。だけど、彼女はその段階で、すべてのセリフを叩き込んでいる」とプロフェッショナルとしての姿勢を当時から評価していたのだ。(集英社『週刊明星』1979年10月21日号)