言ってはいけないこと、書いてはいけないことが増えている。ただし、傷ついたり不利益をこうむったりした当事者が抗議してくることは稀で、たいていは第三者、つまり赤の他人が「不適切だ」と言いつのる。しかも匿名で。1億総自警団化・市民裁判官化だ。
面倒くさいので、誰かが文句を言ってきそうな表現は避けるようになる。自主規制である。メディアの場合は広告主の機嫌も気にする。忖度である。
表現がどんどんつまらなくなる。その一方で、差別や不利益に抗議の声をあげる当事者たちの状況は改善されず、それどころか「自主規制はおまえらのせい」と憎しみを向けられる。不条理だ。
本書はこのような風潮を批判的に描く小説である。全484ページと長く、登場人物も多いが、主要なのは4人の男女だ。30代半ばの俳優、橘響梧。元女優で脚本家・監督の井狩蒔。英会話教室の営業マンで中年男の中松優一。そして優一の娘で高校生の七海。
それぞれが鬱屈を抱えている。響梧は世間から押しつけられるクリーンなイメージにうんざりしている。蒔は誹謗中傷メールに疲れている。優一は神童と呼ばれた過去と、さえない現在のギャップが埋められない。七海は美容整形を繰り返している。
響梧はキャンピングカーを持っている。中は完全な防音を施し、窓にはスモークガラス。トイレやキッチンもあって、住むことも可能だ。自宅マンションとは別の駐車場に置き、ごく限られた者にしかその存在を知らせていない。この動く密室の中で、響梧は社会につくられた理想像とは違う素の自分になる。放送禁止用語を叫び、酒を飲む。「王様の耳はロバの耳」の神話を思い出す。
タブーは時代によって変わる。10年前はOKでも、現在はNGということがたくさんある。新たなタブーに気づかず、それを侵犯した者は、例えば芸能人なら仕事を干され、業界から追放される。今日は誰かを糾弾している者も、明日は石を投げられる側になっているかもしれない。転落への恐怖が私たちを支配している。
蒔が脚本と監督を担当する作品に響梧と七海も参加する。響梧は主演俳優としてカメラの前に立ち、七海はオーディションを受けて小さな役をもらう。
響梧も蒔も、世の中のタブーと自分とのズレに苦しんでいる。蒔は制作側の過剰な要求と、自分がやりたいことのギャップに追い詰められ、奇行に走る。優一はやりがいのない仕事やパワハラにうんざりしているし、七海もストーカーまがいの男に嫌がらせを受けている。誰もが爆発寸前だ。
響梧と蒔が遭遇する通り魔事件がこの小説のクライマックスの一つだが、響梧や蒔が被害者になった可能性も、そして加害者になった可能性もありうる。
小説の後半、全体の4分の3が過ぎた辺りで、物語は近未来に飛ぶ。そして、驚愕の展開が‥‥。
《「タブー・トラック」羽田圭介・著 鼓直・訳/2530円(講談社)》
永江朗(ながえ・あきら):書評家・コラムニスト 58年、北海道生まれ。洋書輸入販売会社に勤務したのち、「宝島」などの編集者・ライターを経て93年よりライターに専念。「ダ・ヴィンチ」をはじめ、多くのメディアで連載中。