トルコのカッパドキアやフランスのロワール渓谷などを筆頭に、観光旅行のアクティビティとして人気の気球。ゆったりと空からの絶景を眺めるだけでなく、制限時間内にどれだけ正確に操縦できるかを競う気球の「競技」があることをご存知でしょうか?
今回お話を伺ったのは、気球操縦士の藤田雄大さん。2014年の世界選手権では、日本人で初めての優勝を達成、日本選手権7連勝、熱気球ホンダグランプリでは12度の優勝など華々しい経歴を持つ日本指折りのトップ選手です。
日本トップクラスの選手の父を持ち、家族一丸となって競技に取り組む気球一家に生まれ、若くして世界のトップに仲間入りした藤田さんは、どのようなキャリアを歩んできたのでしょうか。親子二人三脚で世界一の称号を手にするまでの道のり、競技を続ける中でどのようにモチベーションを維持しているのかを伺いました。
偉大な父の『二代目』というプレッシャーを跳ねのけて
気球操縦士の父・藤田昌彦さんのもと、幼いころから気球に触れていたという雄大さん。気球に乗るのはごくごく自然なこと。そんな稀有な環境下で、幼少期を過ごしていました。
「車に乗ることと同じような感覚でしたね。気球があまりに身近だったので、『特別感』はありませんでした。小中学生の時は、夏休みに入る1カ月前から学校を休んで、父が出場するヨーロッパやアメリカの大会について行っていました。父のようにぼくも気球操縦士になるんだろうなと思っていましたが、両親は『自分の夢を追ったほうがいい』と気球を押し付けることはしませんでした。だから、当時の夢はサッカー選手になることだったんです(笑)」
気球競技は空を飛ぶ選手のほか、地上から飛行をサポートする「地上クルー」、風を読む「気象クルー」など複数のメンバーで行う団体種目。雄大さんは幼少期より地上クルーとして父の飛行をサポートしていました。雄大さんが自ら気球を操縦し始めたのは、気球を飛ばすためのエンジンであるバーナーに手が届くようになった小学校高学年のころだったといいます。
「はじめて自分で操縦した時の感覚は、本当に衝撃的でした。父が簡単そうに飛んでいる姿を見てきましたが、いざ自分で飛ぶとなるとすごく難しい。風や気候はもちろん、その時のパイロットのメンタルなどさまざまな要素が複合的に飛行に影響するんです。
初めての大会で幼少期に見ていた選手たちに競り勝てた時はすごくうれしかったです。競技はもちろん、空を飛ぶこと自体にもおもしろさを感じ、生涯をかけて取り組んでいきたいと思うようになりました」
日本選手権優勝経験を持つなど偉大な選手である父の元、次第に気球にのめり込んでいった雄大さん。16歳から本格的に選手としてのトレーニングを始め、18歳でパイロットライセンスを取得。大学在学中の2007年には日本選手権で2位と新人賞を獲得し、2008年には大学生選手としては史上初の世界選手権に出場という、輝かしい成績を残します。
しかし、『二代目』のプレッシャーに押しつぶされそうな時もありました。
「父は大会で何度も優勝している強豪選手として知られていたので、僕に対しても『二代目が出てきたぞ』という期待の目が向けられていました。そのプレッシャーからか、最初の1、2戦は成績が奮わなかったんです。ただ、チームのメンバーや家族が『順位を気にせずに楽しんで飛べばいい』と言ってくれて。そして、気持ちを切り替えて日本選手権で初めて表彰台に登ることができたんです。それ以来、『いかに楽しんで飛ぶか』は、僕自身の大きなテーマとなりました」
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内定辞退と引き換えに得た世界への切符
大学在学中に国内外の大会に出場し、選手として充実した時期を過ごした藤田さん。このまま気球一筋のキャリアを歩んだのかと思いきや、両親から「数年は社会で揉まれた方が良い」と就職をすすめられ、運送業界のシステムを開発する企業に内定。しかし、人事担当者からの一言で、あっさり内定を辞退することに。
「社会人1年目の秋に世界選手権が控えていたんです。そのことを人事の方に話したら、『同期との温度差が出てしまうから、気球か仕事のどちらかを選んだ方が良い。気球を選んだとしても、いつでも戻ってきていいから』と言ってもらえたんです。世界選手権をあきらめるわけにはいかないと思い、内定をお断りしました」
雄大さんが自分の人生を「気球一筋」に決めたのはこの時でした。父が持つ大会連勝記録を超えたい、父が叶えられなかった世界選手権優勝を成し遂げたいという思いをエンジンに、さらに競技にのめり込んでいきました。
「当時はまだ選手として活躍していた父と一緒に世界選手権に参加するという幸運な機会にも恵まれました。二人で肩を並べて大会に出られたことは、すごく良い思い出になっています」
気球はチームスポーツ。父・昌彦さんを含めチーム一丸となって競技に取り組んでいる