革命にはレプティリアンが必要だった?
――太田竜とはいったいどんな人物だったのでしょうか、そしてなぜレプティリアン陰謀論を唱えたのですか。
太田竜は1930年生まれで、終戦直後に日本共産党に入党したのを皮切りに、トロツキスト、アナキスト、アイヌ解放論者、エコロジストなど、2009年に逝去するまでさまざまに立場を変えながら政治運動を続けた人物です。
太田の思想の根本にあるのは人間主義的なマルクス主義でした。「人間は常に自然に否定され、その矛盾を乗り越えようとする存在である」という人間観に基づいた思想です。
この思想に強い影響を受けて、太田は1940年代後半から政治活動を開始しました。
しかし太田のマルクス主義思想が時代に合っていたのは1960年代頃、学生運動や労働運動が盛んで、それらを通じて権力や資本主義と闘争する機運が社会のなかに残っていた頃までした。
1970年代以降、かつては社会に抑圧されていた労働者やマイノリティたちが社会の側に包摂されていきます。
高度経済成長のなかで社会が豊かになるにつれて、人々は権力や資本家と戦う意味を見出せなくなっていくわけです。
社会から否定され、その否定に対抗する存在が、“多様性”の伸長とともにどんどん失われていった時代でもありました。
――社会から否定される存在が減っていくのはいいことなのではないでしょうか。
もちろんそうなのですが、“多様性”や“包摂“が国内外の格差や不平等を覆い隠し、かえって新たな排除や画一性を生むこともあるでしょう。
実際に、現実の社会は何かしら矛盾を常に抱えています。
太田からすれば、あらゆる人が優しく包摂された社会は、矛盾や対立を曖昧にしてしまい、権力と正面から戦うことのできない不健全な世界なんです。太田は1980年代に「日本原住民史」という偽史も展開しています。
日本原住民史とは「現代の日本の支配的な文化や支配層は、古代にユーラシア大陸から渡ってきて、日本列島の原住民を抑圧してきた侵略者たちをルーツにしている」という歴史観です。
偽書とされる史料を奔放な想像力でつなぎ合わせており、学術的な歴史学からは架空の歴史とされますが、支配と被支配の観点から歴史を見るところは、マルクス主義の歴史観を引き継いでいます。
なぜ、太田が偽史にのめり込んだかといえば、人々に「侵略者の末裔である現代の支配層と戦うべきだ」と呼びかけるためです。社会から「戦い」が失われていくなかで、太田はオルタナティブな歴史に闘争の根拠を求めるようになりました。
――その先に辿り着いたのがレプティリアン陰謀論だった?
そうです。レプティリアン陰謀論は日本原住民史の延長線上に位置します。
冷戦崩壊後には、世界中が資本主義に覆われてますます権力や資本家との対立が難しくなります。私たちの生活のあらゆる部分に資本主義のシステムが入り込んできて、そのシステムなしには生きていけない社会が出来上がったからです。
この時期に、太田が持ち出したのがレプティリアンという敵でした。
レプティリアンとその交配種は、一見それと分からない見た目で世界の支配層を牛耳っているとされるので、何かをレプティリアンと見なせば新たな対立を作り出すことができます。
こうした問題意識のなかで、太田はアイクのレプティリアン陰謀論を引き継ぎ、日本への紹介者になっていきました。
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レプティリアンは「資本主義の悪」を象徴する存在
――太田は、レプティリアン陰謀論に資本主義社会への抵抗の可能性を見たわけですね。
おそらく、太田にとっての「レプティリアン」とは「資本主義」を言い換えたものだったのだと思います。
たしかに、資本主義社会はさまざまな格差や不平等や環境問題を生み出し、経済のために非人道的な行為がまかり通ってしまうこともある。批判的に見ると、資本主義こそが諸悪の根源だと言えなくはありません。しかし、厄介なのは「資本主義には実体がない」ということです。
例えば、資本主義社会を打倒しようとグローバル企業の本社を占拠したとしても、資本主義のシステムは止まらないでしょう。グローバル資本主義には実体がないので、特定の国や企業、人物を攻撃しても打倒できないわけです。
では、どうやって資本主義に抵抗すればよいのか。太田の出した答えがレプティリアン陰謀論でした。
つまり、太田にとってレプティリアンとは資本主義によって生み出される悪を実体化し、人々に抵抗のエネルギーを向けさせ続けるためのメタファーだったわけです。
――とはいえ、レプティリアンを持ち出すのは極端すぎるようにも思います。
もちろんレプティリアンなど持ち出さずに、資本主義の内部から格差や不平等を少しでも解消していくという道もあるでしょう。
しかし、太田は資本主義の問題を根本的に取り除く方法を一貫して問い続けたわけです。
私は、太田の思想には、決して馬鹿にはできない指摘が含まれていると思っています。
先ほども述べたように、現在の社会は世界中が資本主義のシステムで覆い尽くされてしまい、その恩恵を受ける私たちすべてが、そのシステムの孕む悪の加担者にならざるを得ません。
そんな世界では、レプティリアンのような絶対悪の観念に頼らなければ、ラディカルに社会を批判することは難しいわけです。実際、社会や政治を批判する人たちが、レプティリアンでないにせよ、何らかの組織や人物を絶対悪として無自覚に陰謀論的になっているのを目にします。
この点では太田のほうが良くも悪くも意識的であり、こここそが太田の注目すべきところです。
そもそも現代の社会を鋭く批判するには、既存の常識から見れば荒唐無稽と思われる思想や観念に依拠せざるを得ないのではないでしょうか。
それほどまで資本主義が進展し、有力な対抗理論が見失われてしまった世界に、私たちは生きているということを自覚する必要はあると思います。
プロフィール
栗田英彦(くりた・ひでひこ)
近代宗教史・思想史家。1978年生まれ。東北大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。名古屋弁証法研究会主宰。佛教大学、愛知学院大学等、非常勤講師。専門領域は近代霊性運動史、近代仏教史、日本思想史。修養・民間精神療法(霊術)・催眠術から、昭和期の右翼思想や1960年代の新左翼・全共闘運動まで幅広く研究している。著書に『近現代日本の民間精神療法』(共編著、国書刊行会)、『「日本心霊学会」研究』(編著、人文書院)、『コンスピリチュアリティ入門』(共著、創元社)など。
取材・文/島袋龍太 写真/Shutterstock