言葉狩り
ねじくれた言い方に見えるかもしれないが、こうした人間観は、根本的には――第5回の本コラムで触れたように――ヘイトスピーチ条例を始めとした「法的な表現規制」の不毛と党派性を示唆するだろう。
外国籍の者や特別永住者に対する憎悪的言説とされる「日本が嫌なら、祖国へ帰れ」は、それを叫ぶ者の感情や思想、その人自身を正確に表してはいないかもしれない。
決まりきった安直なフレーズを咄嗟に使わざるを得ないほど話者の怒りを喚起している、現今の拙速な移民導入や特別永住者をめぐる報道や政策の功罪を問い、議論することをせず、ただ舌足らずな言葉を発した者だけを取り締まるのは、言論の自由を圧殺する振舞いに等しいのではないか。
相反する考えを持つ集団を批判する際、メディアも活動家も、相手方の「上等な言論」に挑むのではなく、手軽に「底」を拾って叩く。SNSの書き込みは、そうしたみっともない戦い方に使うには最適だが、それはもはや議論ではない。流麗な言葉を持たない人々がやむを得ず使う言葉は、決して彼らの真情を代弁しないからである。
たとえば、恩蔵は言う。
〈ある日、母の友人が母を音楽会に誘い出してくれた。帰ってきた母に感想を尋ねると、「ぜんぜん上手じゃなかったわ」と返ってきた。
ところがその二時間後の夕食中、再び音楽会の話題になると「すごく上手だったのよ」と正反対のことを言った(…)こう聞かれれば、こう答えるけれど、ああいう聞かれ方には、ああ答えるということがあるのであって、ひとつの出来事に対して、ひとつの見方しか持ってはいけないなんて、論理を通せなんて、生身の人間を縛るべきではないのかもしれない、と母を見ていて思った〉【11】
憎悪的な言葉は、彼らの憎悪を証しするのではなく、ただ、彼らが置かれている状況に怒っていること、ストレスや悲しみを感じているという事実を示すだけだ。こうした「言葉狩り」は、「怒りの感情を表明すること」それ自体の禁止に直結する。
それでもなお、法的規制を表現の圧殺ではないと捉える者は、結局、自己および自己が属する利益集団の権力獲得にしか関心がないのだろう。
同様に、日本国民を「劣等民族」と呼び、鼻で嗤ったジャーナリストの青木理について、その言葉だけを理由に彼をキャンセルしようと画策する動きも間違っている。出演の自粛に快哉を叫ぶのではなく、そうした発言に至る彼の真意や狙いを論じ、議論することこそがメディアの務めではないのか。
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金持ちに課税せよ
最後にひとつ、介護経験者である恩蔵や信友、認知症の当事者である丹野の著作に共通する「沈黙」についても触れておきたい。
彼らは共助や寛容の必要性を説くが、社会全体で助け合うために必要な資金(財源)を誰が負担すべきであるかについては、ほとんど語らない。この点については、ごく当たり前に考えて「我が国には、社会保障のための財源が不足しているので、金持ちの税負担を大幅に上げろ」と言うほかないのではないか。
評者は、努力の成果としての一定の格差を肯定するが、資本主義を我が国の「正典」であるとは考えていない。我が国の「現下の正典」は自由民主主義であり、資本主義はその隷下に付随しているはずだからだ。
野村総研の推計【12】によれば、純金融資産保有額が1億円以上5億円未満の富裕層、5億円以上の超富裕層は、日本国内に約149万世帯。その純金融資産総額は、364兆円に上る。中間層、低所得層の「勤労所得」への課税をこれ以上重くする前に、まずは超富裕層、富裕層の保有資産に課税するのが、人間的な筋というものではあるまいか。
これは個人の努力の否定でも、無効化でもない。超富裕層と富裕層に重課しても、相対的な格差は残り続けるからである。
文/藤野眞功
【1】飯塚友道『認知症パンデミック』(ちくま新書)を参照。
【2】本稿における〈認知症〉は、もっとも患者数の多いアルツハイマー型認知症を指す。
【3】後述する丹野智文のように、若年性認知症を発症しても働いている者もいる。
【4】信友が監督した映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』の公開は、2018年。映画をもとにした同名の単行本(新潮社)の刊行は、2019年。恩蔵の著書『脳科学者の母が、認知症になる 記憶を失うとその人は〝その人〟でなくなるのか?』(河出書房新社)の刊行は2019年である。
【5】両親が存命だったのは「脳科学者の母が~」および「ぼけますから~」刊行時の状況である。「認知症介護のリアル」刊行時には、ふたりの母は亡くなっている。
【6】「認知症介護のリアル」より引用。
【7】恩蔵は、専門家としての科学的知見を用い「その人らしさの定義」を拡張することによって、認知症が「拡張された定義における人格」に与える影響を少なく見積もることに成功している。
評者は「知性に基づくコミュニケーション能力」を、一般に定義される「その人らしさ」だと規定しているので、両者の定義にはズレがある。そのため、評者の見地からは「拡張された定義におけるその人らしさ(知性に基づくコミュニケーション能力以外の要素を、その人らしさに含めるという考え方)」は〈非科学的〉である、ということになる。
【8】財源と実現性の観点から、福祉に関する現実的な議論はユートピア的無国境主義ではなく、国民国家の単位でおこなわれるのが常である。
【9】丹野智文『認知症の私から見える社会』(講談社+α新書)
【10】「認知症の私~」より引用。
【11】恩蔵絢子『脳科学者の母が、認知症になる』(河出文庫)より引用。
【12】2023年3月1日 株式会社野村総合研究所ニュースリリースhttps://www.nri.com/-/media/Corporate/jp/Files/PDF/news/newsrelease/cc/2023/230301_1.pdf