「ここではきものをぬいでください」どう読む? 目の見えない精神科医が「見えていても見えないことがある」と説く理由

目の前に見えていること。それって本当に「見えて」いますか? 徐々に視野が狭まる病によって32歳で完全に視力を失いながらも、精神科医として10年以上にわたって患者さんの心の病と向き合っている福場将太さんは、「目が見えている人には見えているからこその死角がある」と言う。初の著書『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』(サンマーク出版)より一部抜粋、再構成してお届けする。

見えているからこそ、ちゃんと見ましょう

1つクエスチョンです。

「DM」とは何の略でしょう? 

どうです? 何か思いつきましたか?

「そりゃ糖尿病のことでしょ」と思ったあなたは医療関係者かもしれませんね。「え、ダイレクトメールじゃないの?」と思ったあなたは、事務職の方かな。

「こいつはディーメジャーだぜ、ベイベー」と思ったあなたは夢を追い続けるバンドマン、「被害者が残したダイイングメッセージですよ、ワトソンくん」と思ったあなたは名探偵に憧れるミステリーマニア、「もちろんわたしのイニシャルだよ」と思ったあなたの名前はドナルド・マクドナルドさんでしょうか。

このように、物事には無限の解釈があります。

そして自分にはそうとしか思えなくても、他の人は全く違うことを思っていることがしょっちゅうあるのです。

(広告の後にも続きます)

「聴覚」も「視覚」も勘違いを起こしやすい

特に日本語は同音異義語だらけなので、耳での勘違いが非常に多い。

「精神科医療(せいしんかいょう)を受けました」が「精神改良(せいしんかいりょう)を受けました」に聞こえて「脳手術でもしたのか?」と思ったり、「ありのまま」と聞いてレットイットゴーかと思ったら女王アリの話だったり、「疑われてますよ」と警察の捜査のセリフかと思ったら「歌が割れてますよ」とレコーディングエンジニアのセリフだったり、「感染者多数」と聞いてコロナの報道かと思ったらサポーター満員御礼のサッカーのニュースだったり、「子どもたちにアイスが足りない」とおやつの話かと思ったら「『愛す』が足りない」という子育て指導の話だったり、「ジョージ・マッケンジーです」と聞いて外国人かと思ったら「城島健司」という名前の日本人だったり、そういった誤解・勘違いは日常茶飯事です。

子どもの頃、父親が「シカイシカイノシカイをやった」と聞いて、司会を3回もやったのかと思ったら、「歯科医師会の司会をやった」という話でした。

そして耳の「聴覚」と同様、目の「視覚」もまた、人によって解釈が変わり、非常に勘違いを起こしやすい感覚です。

「え? 見えているものは、誰がどう見たって一緒でしょ? 人によって見えるものが変わるなんて、そんなわけない!」

そう思われるかもしれませんが、例えば次の文字をあなたはどう読みますか?

・東大助教授
・ここではきものをぬいでください
・私が行ったコンサート

「あずまだいすけきょうじゅ」に見えた人もいれば、「とうだいじょきょうじゅ」に見えた人もいるでしょう。

「ここで履き物を脱いでください」と玄関を想像した人もいれば、「ここでは着物を脱いでください」と脱衣所を想像した人もいるでしょう。

「私がいったコンサート」と観客側の話と思った人もいれば、「私がおこなったコンサート」と演奏側の話と思った人もいるでしょう。