クモハ40074、戦前から戦後にかけて使われた通勤型車両 / credit: wikipedia

現在多くの人々が当たり前のように満員電車に押し込まれて長距離通勤をしています。

しかし長距離の通勤という文化の発生には、郊外の住宅地や交通機関の発達が必要になります。

果たして満員電車や長距離の通勤はいつの時代から始まったのでしょうか?

本記事ではいつ通勤が生まれたのかについて紹介しつつ、戦前の通勤について紹介していきます。

なおこの研究は国際交通安全学会IATSS ReviewVol.25,No.3に詳細が書かれています。

目次

半ば儀式と化していた武士の通勤交通と共に発展していった通勤郊外志向が強かった戦前の東京

半ば儀式と化していた武士の通勤


「安政五戊午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」、桜田門外の変の時は端午の節句のイベントのために登城したということもあり、非常に儀礼ばった通勤だった。 / credit: wikipedia

通勤が一般的なものになったのは近代になってからです。

それ以前の社会では町人の多くは自営業という形で仕事を行っていたり、大規模の商店に住み込みで働いたりしており、現在のように自宅から通って仕事をしている人はあまり多くありませんでした。

また人口の多くが農民であり、そもそも町人の数もあまりいませんでした。

それでも現在の通勤に近いことをしている例がなかったわけではなく、例えば大名は江戸の屋敷から江戸城に通勤したりしています。

日常時の通勤の際はそこまで厳しいルールはなかったものの、江戸城で特別な儀式が行われるときなどは城への通勤そのものが儀式となっており、髪型や衣服なども厳しく決められていました。

実際に大老の井伊直弼(いいなおすけ)が襲撃された桜田門外の変のときは、井伊家の屋敷から江戸城の門までの1.5キロほどの距離を一時間近くかけて移動していました。

この日はいわゆるひな祭りのため、江戸にいる大名たちは祝賀へ総登城することになっており、井伊はそこで祝辞を述べる予定でした。

その為普段の通勤とは異なり、自宅を出たときから儀式ばったものになっていたのです。

またこの日に江戸城内で行事が行われることは事前に知らされていたこともあって江戸の町民が登城する大名の見物に訪れており、襲撃した水戸藩士たちも見物客に紛れて行動していました。

そのような事情があって、この日が襲撃の決行日に選ばれたのではないかと言われています。

 

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交通と共に発展していった通勤


東京名所 日本橋京橋之間鉄道馬車往復之図、電車が生まれる前は馬車鉄道が重要な公共交通機関だった / credit: wikipedia

やがて明治時代になり日本が近代化すると、公的機関や企業の制度が整えられていきました。

しかし当初は公共交通機関がなかったということもあり、高級官僚や社員が馬車を利用する一方で、一般職員は徒歩通勤が主流でした。

また、女性労働者は遠隔地からの出稼ぎが多かったということもあり、寄宿舎に収容されることが多く、やはり通勤とは縁のない生活でした。

しかし都市化が進んでいったことによって公共交通機関が整備されると、通勤をする人は増えていきました。

1906年の時点で東京には東京電車鉄道のほかに東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社の路線がありましたが、3社合わせた1日平均利用者数は約32万人であり、鉄道は一躍大量交通機関となったのです。

またこの時期には始発から午前7時までは通常よりも安い運賃になっており、現代の時間帯別運賃に近いシステムが導入されていました。

なお先述した3社は1909年に合併して東京鉄道(現在の東京都電車)になりましたが、合併する際に運賃を大幅に引き上げようとしました。

これに対して通勤に使っていた東京市民は怒り、値上げに反対する一部の市民が暴徒化して電車を焼き討ちしたりしましたが、訴えもむなしく運賃の値上げが中止されることはありませんでした。