雑誌表紙を飾った元モデルが、千葉県に「日本一ゾウが多い動物園」をつくった理由。

動物園を賑わせたアイデア

「山小川ファーム動物クラブ」の滑り出しは、決して順調ではありませんでした。開園からすぐに迎えたゴールデンウイークの売り上げは、たったの100万円。小百合さんは夫から「ゾウを一頭貸したら1日300万円の時代に、なんでそんなことをするんだ」と言われたそう。

しかし、小百合さんはそれまで仕事もなく狭い檻のなかでボーっとしていた動物たちを広い飼育場に解放し、その上100万円も稼いだことに手応えを得ていました。もっと大勢のお客さんに来てもらうためにどうしたら良いのかを考えた小百合さんは、ある日、閃きます。

「エサを売って、お客さんが動物にあげられるようにしよう!」

封筒を半分に切ったものにニンジンを入れて、園内で販売。近年、あちこちの動物園で見かける「園内で動物のエサを売る」ビジネスの先駆けが、「山小川ファーム動物クラブ」でした。お客さんは、ゾウをはじめ動物園の動物たちにエサをあげるという初めての体験にエキサイトし、面白いほど売れました。


当初は封筒だったエサ入れも、使い回しできるバケツに変更。今ではバケツに反応してゾウが近くに寄るように

「動物のエサやりを始めたのは、うちが日本で最初だったと思います。エサが入ったバケツを持ったお客さんが来ると、動物はバケツを見て、『良い人が来た』と思って近寄ってくるようになりました。

お客さんからすると、自分が名前を呼んだから動物が寄ってきてくれたと思っているんだけどね(笑)。動物もはたらかなくちゃいけないでしょ。それなら、楽しくはたらかなくちゃ」

また、当時日本では珍しかったゾウのショーにも小百合さんは着手します。ショーやエサやり体験がヒットし、2、3年も経つと、大勢のお客さんが訪れるようになります。

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悲劇の別れ

さて、山小川ファーム動物クラブを運営する最中にも、動物プロダクションの経営に奔走していました。思い入れが深い仕事は、1992年に放送された終戦記念ドラマ『象のいない動物園』。太平洋戦争中に処分されることになった上野動物園のゾウを描いた品で、ランディが出演することになりました。

その際、ランディに付きっきりで演技指導を担当したのが、哲夢さん。息子の奮闘を見て、「一人前のゾウ使いになった」とうれしく思ったそう。

その哲夢さんを、悲劇が襲います。8月の終戦記念日に『象のいない動物園』が放送されてから3カ月後の11月10日。その日、社員旅行でグアムにいた小百合さんに、ホテルのスタッフから「息子さんが交通事故に遭った」と連絡が入りました。

日本のスタッフと連絡を取り合っても事故に遭ったということしか分からず、大急ぎで帰国。自宅に戻ると、小百合さんの母が静かに泣いていました。哲夢さんは仕事で使うネコを搬送している時にトラックと正面衝突し、すでに亡くなっていたのです。

「実感が湧かないですよ。突然のことで、なんて言ったら良いのかしら。信じられないっていうか」

後日、スタッフから「事故が起きたと思われる時間に、4頭のゾウが一斉に鳴いた」と聞いて、小百合さんは胸を打たれました。悲しみと混乱のなかで迎えた葬儀の日、出棺の際にも4頭のゾウは大きな鳴き声を上げ、棺に歩み寄って涙を流しました。

哲夢さんが亡くなってからしばらくの間、ゾウたちはショーをする広場に足を向けなくなりました。それぞれのゾウを担当するゾウ使いや小百合さんが「お客さんが待っているから行こうよ」といくら声をかけても、歩き出しません。

それでも毎日毎日、ゾウ舎に出向いて話しかけていたら、12月に入ったある日、まるで喪が明けたかのように、ゾウたちが広場に向かいました。この時期から、小百合さんとゾウの関係が変わり始めます。

「最初のころは、ゾウがなにを考えているか分かりませんでした。私にとっては、大食漢の力持ちっていう感じ。でも息子が亡くなってゾウたちと向き合うようになったら、ゾウたちの悲しみが私と一緒なんだって感じたんです。それからかな、ゾウと分かりあえるようになったのは」