オランダに渡って10年。桑原秀和(33歳)は多くの日本人サッカー選手を顧客に持つ理学療法士だ。最近は日本人選手を3人ずつ抱えるコルトレイクとヘント(ともにベルギー)に出張し、彼ら6人の身体をケアしてきた。
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子どもの頃は「消防士か警察官になって人を助けたい」「プロサッカー選手になって外国でプレーしたい」という夢を持っていた。桑原は、欧州で負傷に悩む選手たちの助けとなることで、その夢を叶えた。
理学療法士を目ざしたキッカケは中学2年生のときのリハビリ生活。サッカーで膝の靭帯を傷めた彼は、横浜市スポーツ医科学センターに1か月通いながら、理学療法士の治療を受けた。
「世の中にはこういう仕事もあるんだ…」と知った桑原の決意は固まった。高校は横浜市内の進学校。しかし、彼は大学を受験することなく、理学療法士育成の専門学校へ進んだ。卒業から1年後、所持金わずか30万円とともに桑原はオランダへ渡った。
学生時代から、オランダでの生活を始めた最初の2年にかけて、桑原はその後の自身の施術メソッドにつながる大きな出来事を経験している。それは鬱になった母親が病院で薬漬けにされたこと。「精神科に行ってきなよ」という桑原の勧めに応じて病院に通い始めたところ、たくさんの薬を処方され、どんどんその量が増えていった。
「これでは、母は絶対に良くならない。薬は症状を和らげることはできるけれど、完治することはできない」と悟った桑原は薬を減らす方法や、食事で栄養を摂りながら症状を治す方法を学び、オランダに渡ってからもZOOMなどでコミュニケーションを取りながら母をサポートした。
「母はいま、とても健康で、薬なしで生活できるようになりました。“以前の母”に戻ったというより、前よりも元気になりました。そういう経験もあって、栄養やメンタル的なこと、内蔵を診ることなどが重要だと気付きました。
サッカー選手も結局、人間じゃないですか。怪我を治すときには、サッカーのことだけではなく、選手がどういう生活をしているかも見ないといけない。むしろ、そういうことのほうが治療をするうえで重要になってくると思います」
オランダではドゥコという理学療法士に出会い、1年間、研修する機会を得た。
「クラブで治せなかったサッカー選手のことを、ドゥコは治療してました。彼はオステオパシー(自然治癒力を主体とする治療法)の理学療法士で、例えば肩を傷めた選手に対し、内蔵を診たりすることで治してました。僕が筋肉だけではなく、身体の内部も考えながら治療するようになったのは、ドゥコの影響が大きいです」
オランダのアマチュアクラブやプロクラブで経験を積みながら、桑原は「患部と違う場所を診ることも含めて選手の怪我を治したり、痛みをなくしたりする」というメソッドを確立していく。脳神経に刺激を入れて身体全体を緩めることで、膝の痛みが和らいだりすることもある。足首の痛みには、必要があれば肩のエクササイズを取り入れたりする。
しかし桑原のメソッドは、オランダやベルギーのサッカークラブでは異端。アマチュアクラブでも、プロクラブでも、桑原は「アイツは好き勝手なことをしている」という目で見られることが多かった。2019年から1年間在籍したシント・トロイデン(以下STVV)でもそうだった。
「オランダやベルギーは、『足首に痛みがあったら、患部をダイレクトに治療することで治す』という考えです。でも、僕のやり方は『この肩の痛みは他のところから来ているのでは?』と考え、身体全体の関節のバランスを取ったり、患部以外の場所を整えたりしたりする包括的な治療方法です。STVVのフィジオのトップは僕のやり方を理解してくれませんでした。サッカークラブで働く以上、僕が組織に合わせるべきだったんでしょうが、それでは自分のやりたいことができない」
しかし、桑原の治療法は選手たちの間で評判が良かった。特に、エースストライカーの鈴木優磨(現鹿島)は彼のことをすごく気に入り、桑原が朝、STVVに着くと誰よりも先に鈴木を治療するのがクラブ内での暗黙の了解になった。やがて鈴木から「ヒデさん(桑原)、俺の専属にならない?」と誘われた。
クラブのポリシーと、自身のメソッドの狭間に葛藤していた桑原は、鈴木のオファーを受けた。鈴木の専属トレーナーに転じても、STVVの日本人選手、韓国人選手、アルゼンチン選手たちが治療やエクササイズを受けに桑原のもとを訪ね続けた。
鈴木から選手を紹介されることもあった。鹿島時代の同僚、町田浩樹(現ユニオン)は2022-23シーズンの前半戦を、鼠径部の負傷で欠場した。当時の町田はクラブと話し合ってパリの専門医で手術することになっていた。
「彼を診始めて3回目くらいのときに、僕が『これは手術するような負傷ではない。日本に帰って集中して治療したほうがいいですよ』と話したところ、本人も同様の考えでいて日本にいるトレーナーの方と連絡を取って、ユニオンの許可をもらってから日本に戻り、集中して治療することで復帰できました」
伊東純也(ヘンク/現スタッド・ランス)、斉藤光毅(スパルタ/現QPR)、三竿健斗(ルーバン/現鹿島)、吉良知夏(現テルスター)、中村敬斗(STVV/現スタッド・ランス)、橋岡大樹(STVV/現ルートン)、シュミット・ダニエル(STVV/現ヘント)…。日増しに桑原が診る選手たちが増えていった。そのなかでもやはり鈴木優磨との付き合いは特に濃かった。
「優磨が地元に帰省したときを除いて一年中、一緒にいました。彼がパリに旅行しに行っても、僕は同行して治療してたんです」
人には身体の使い方にクセがあり、一流サッカー選手も身体の基本的な使い方を取り戻すトレーニングが必要だ。
「サッカーに特化したトレーニングというより、人間としての身体を赤ちゃんのようにナチュラルに戻すようなトレーニングです。赤ちゃんは本当に必要最低限の筋肉で立ちます。そのためには身体の中心に近い筋肉がしっかり働かないといけない。しかしストレスや緊張により肩が上がって猫背になったりして、外側の筋肉がだんだん硬くなり、サッカー選手だとパフォーマンスが下がったり、怪我をしやすくなったりする。
一方、身体の中心に近い筋肉がしっかり使えてくるようになると身体の可動域が勝手に上がっていきます。だけど、そこは意識しないと使えない筋肉ですので、トレーニングで意識させて使えるようにし、自然な身体に戻していきます。ストレスで身体の外側の筋肉が硬くなるように、メンタルと筋肉は関係します。統計がないので科学的ではないですが、メンタルで動じることのない『芯の強い選手』は『芯の筋肉の強い選手』につながります」
鈴木は週に2回45分間、桑原のメニューをこなしていたが、この手のエクササイズは総じて単調なもの。そのことに鈴木は音を上げ、「飽きる。もう無理」となった。
「優磨曰く『地味トレ』。これをしっかりやらないと怪我をしやすい身体になってしまう。しかし彼もクラブでのトレーニングや試合の疲れがあるので、45分間も地味トレができない。彼が『10分間なら大丈夫』と言うので、この短い時間にトレーニングをギュウギュウに詰め込んで、日々メニューを変える工夫をしながら毎朝の治療後に10分間のトレーニングをすることにしました」
桑原はなぜ『45分間のトレーニング』という理想を捨て、選手に妥協するかのように10分間にトレーニングをまとめたのだろうか。そこには桑原の「人を知り、選手を診る・見る」というフィロソフィーがある。彼は鈴木の家族から「優磨は子どもの頃からサッカーにすべてを捧げ、やると決めたことは継続してきた」と聞いていた。一方、鈴木には「継続できるバランス」というものがある。地味トレに関しては10分間が、そのバランスだった。
「僕の理想だけで『こうしたら良くなる』『朝45分間トレーニングしたら良くなる』と押し付けても、彼には培ってきたものがあるので、他人が一瞬で変えられるものではない。そこを最初はうまく寄り添って少しずつ方向を変えていくことが大事だと思う。人としての彼を知らなかったら、おそらくストレートに言ってしまったので、うまくいかなったと思います」
1年、2年、3年…。地味トレを継続することで、鈴木は「長くやらないと分からないこともあるんだな」とそのトレーニングの奥深さを感じるようになった。
「それは本人が継続しているから。そして彼が継続できる人だから(地味トレの意義を)感じるとることができました。幼少期の頃からサッカーのために人生をサッカーに捧げ、そのためにやるべきことをやってきたのが優磨なんです。
鹿島に戻った今も『チームメイトより1時間早くスタジアムに着いて、渡されたメニューを継続してトレーニングしている』と、彼の家族から聞いたときは嬉しかったですね。彼も『あのトレーニングをやらないとスイッチが入らず、怪我をしそうで怖い』という感じらしいんです。それは歯磨きと一緒で、やらないと気持ちが悪いのと同じ。同じルーティンをやることで、『今日はここが重い』『今日はここが硬い』と普段なら気付かないことに気付いて、対処することができる。
自分の身体を知ることは、怪我の予防にもつながります。だからサッカー選手に限らず、僕は皆さんにルーティンを作ることをお薦めします」
桑原はいま、『人間の身体を知ること』にモチベーションがあるという。そこを突き詰めることで、「他のフィジオに診てもらったけれども、治らなかった人を治してあげたい」のだという。
「オランダはどうしてもエビデンス主義なので、科学的根拠のある方法でしか治療しない。患部を直接治療するほうがエビデンスを取りやすいので、肩なら肩、膝なら膝の治療しかしませんが、他に原因があるケースだとオランダでは治りづらい。『もう少し幅広く診てあげれば早く治るのに』と思うこともあります。中国鍼だってエビデンスは取りづらいですけれど、治療効果は高いですものね。
クラブ・フィジオのトップの言うことを聞きながら我慢して働ければ、いずれ僕がそのクラブのトップに立てる自信はあります。しかし、僕は科学的根拠のない治療も含めて、自分のやり方を突き詰めて『ゴッドハンド』のような存在になって、その先にサッカークラブからオファーがあればいい。そのためにも治療院を作り、これまで治せてもらえなかった人たちの痛みをなくしたりやわらげたりして自身の評判を上げていきたい。この夏、治療院を開業しました。オランダに来て10年、やっとスタート地点に立てた感じですね」
目ざすのはトップ。「一流の選手と、一流でない選手の違いは何か」というテーマを持ってブラジルのサッカークラブを回ったとき、ジーコたちから「メンタルだよ。そこしかない」と言われたという。
「『チームでは全員、同じ環境でトレーニングをしているから、そこで選手の差は生まれない。何が差を生むかというと、グラウンドに行くときに上を向いて行くのか、下を向いて行くのか。その向上心のある・なしが一流と一流でない選手を分ける』と言われて、僕のなかで腑に落ちた。
フィジオとして選手をサポートする立場として、そういうメンタルのところに僕も関わっていきたい。そのためにも僕自身のレベルが上がらないと、選手と会話をしていてもいい影響を与えることができません。会うだけで影響を受けたり元気が出たりする人がいるじゃないですか。そういうレベルの高さが、僕の目ざすところ。トップレベルのビッグクラブで働くことはひとつの要素になると思います。おのずと一流選手の身体を触ったり、メンタルを知ったりすることができますので、さらに人の身体に対する探究心がそそられると思います」
東洋思想の混じった桑原の治療メソッドに共感するオランダ人もいたから、彼はアルメレ・シティ、エクセルシオール、スパルタといったオランダのプロサッカークラブで仕事をする機会を得てきた。しかし、入団してから実務に励むとどうしても治療法のフィロソフィーがぶつかってしまう。そこで一旦、サッカークラブという枠組みから飛び出して、誰もが認めざるを得ない絶対的な存在『ゴッドハンド』になってからサッカークラブで働こうと目論んでいる。
母国語で商売道具の身体を安心して預けることのできる日本人フィジオの存在は、欧州でプレーする日本人選手たちにとってかけがえのない存在だ。しかし、桑原が欧州のトップクラブを目ざす以上、日本人選手以外のサッカー選手たちをより多く顧客にすることが今後の課題になる。アムステルダムに治療院を開業したことは、多くのオランダ人に桑原の施術を知ってもらう契機になるだろう。
取材・文●中田 徹
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