今から80年前の1944年10月25日、爆弾を抱え航空機ごと空母などの標的に体当たり攻撃する「特攻」作戦が初めて行なわれた。世界でも類を見ない攻撃作戦で、隊員は戦中こそ軍神と呼ばれたが、、戦後は戦争犯罪者として誹謗中傷にさらされてきた。遺族たちはその後どんな人生を送ったのか。
『「特攻」の聲 隊員と遺族の八十年』(KADOKAWA)より、一部抜粋、再構成してお届けする。
兄を失った弟たち
毎年10月25日、愛媛県西条市の楢本神社で「神風特攻敷島隊並びに愛媛県特攻戦没者追悼式典」が開かれる。
昭和19(1944)年10月25日、フィリピンのマバラカット基地で、関行男大尉(当時23歳、没後中佐)を隊長に出撃散華した敷島隊の5人と、愛媛県出身の特攻戦没者を慰霊、顕彰するのが目的で、毎年、全国から遺族らが参列する。
私は10年余り前から式典に参列しているが、たくさんの遺族や特攻隊関係者に出会って来た。
その中に強く印象に残った遺族が2人いる。
1人は、昭和20年4月11日、神雷部隊第5建武隊の隊員として出撃、喜界島南方海域で敵機動部隊に突入、散華した曽我部隆二飛曹(当時19歳、没後少尉)の弟、勲だ。
私が最後に会ったのは、令和元(2019)年の追悼式典で、当時、90歳だった。勲は、それまで何年もの間、遺族を代表して言葉を述べてきたが、この日もこう訴えた。
「私は当時15歳で、中学1年生だった。先輩たちは日本の勝利を信じて飛び立って行った。兄も祖国の平和を念じ、家族の安全を思い出撃していった。
でも多くの御霊は靖国神社で本当に安らかに鎮まっているのでしょうか。皇室と総理は公式参拝できない。『国のため逝きたる御霊は安らけきか』と、この一言に尽きる」
勲のあいさつを聞いて、私は心の中で「その通り」と叫んでいた。以前の追悼式典で、勲はこうも言っている。
「血汐たぎる若者が祖国を護らんと志願し、靖国神社で会おうを合言葉に、陸、海軍合わせ240万人にものぼる同胞が国難に殉じましたが、その御霊は今、靖国神社で安らかに鎮まっているのでしょうか。
それとも千の風になって舞っているのでしょうか。皇室をはじめ歴代総理大臣も公式参拝すらできないのです。これが世界有数の経済大国であり独立国日本の姿でしょうか」
勲は、数年前の追悼式で、
「今、日本は平和の中に酔いしれているんじゃないか。もう少し、平和というものを思い直したらどうか。民主主義をはき違えているんじゃないか」
と怒りを直截に口にしたことがある。
勲は話を聞くたびに、こう繰り返していた。
「人間は生きとらにゃあ損やと、死んだらあかんぞと。それは本当じゃなあと、この年になってつくづく思います。
戦争に負けると考え方が違ってくる。教育が変わるから、考え方が根本的に違う人が大勢を占めるんじゃないか。腹立たしいけれど、仕方がない。わしは、12歳から15、16歳まで、世間の変化や親父の姿を見て生きてきた。
苦しい時があって、苦しい思いをした人がいるんだと。そしてそういう人がいたから、今の日本があるんだと、伝えていきたい。それがわしの務めだ」
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残された家族を護り抜く
曽我部家は10人兄妹。勲は八男で、六男の隆二飛曹だけでなく、次男の光雄(享年29歳)と三男の秀民(同25歳)、七男の寿(同18歳)も海軍へ進み、3人全員が散華した。
長男と四男、五男は陸軍への道を選び生還している。
勲が戦時中の体験をふり返り、涙をにじませながら、こう言ったのを忘れることができない。
「隆が20(1945)年4月11日に戦死して、8日後の19日に寿が亡くなった。西条市が市葬をしてくれたのですが、うちは隆と寿の2つの箱を持って行きました。白木の箱と言っても幅、高さが15センチぐらいのボール紙の箱。
寿の箱には遺骨が入っていましたが、隆の方は『曽我部隆』と書いた紙1枚だけでした。1軒の家からいっぺんに2つの白木の箱というのは、近所では例がありませんでした。15歳のわしは寿の白木の箱を持って行きました」
勲の自宅を訪ねると、「神雷」と書かれ、日の丸が染められた鉢巻きと隆二飛曹の遺影が額に入れられ、居間に飾られていた。
「隆が茨城の鹿島で訓練をしているとき、世話になっていた下宿のおばさんから『元気で○○に行った』と手紙を貰いました。何も書いていませんでしたが、○○は鹿屋を指していたのでしょう。それに手紙には(隆は)『会わない方がいい』と言って(鹿屋に)行きましたと書いてあったそうです。
このおばさんには色々なことを話していたみたいです。本人は、兄弟が多いから、自分1人ぐらいは死んでも大丈夫だろうと思っていたみたいです。このおばさんは、遺品となる短剣と鉢巻きと歯ブラシと洗面具を送ってくれました。ところが、小包には穴が開いていて短剣だけがなかったです。誰かが取ったんでしょう」
4人の息子を戦争で失った父親の末蔵は、昭和53年に亡くなった(享年86歳)。
戦争当時50歳代だったが、息子4人が戦死したことに愚痴を言ったことはなく、気丈に振る舞っていたという。末蔵の妻は昭和13年、長女を産むと病気で亡くなった。勲が8歳の頃だ。
妻に先立たれ、4人の子供を戦争で失いながら、挫折せずにいた末蔵の苦労はいかばかりだったか、勲は言う。
「母親は乳飲み子を残して亡くなったから、父親は苦労したと思います。母親が生きていたら、気が紛れただろうに」
気丈に過ごしていた末蔵も、寄る年波か、寂しさからか、だんだんと酒の量が増え、80代になるとすっかり足腰が弱くなっていった。
戦争が終わってから33年間、「1人で耐えて生き抜いた父の気持ちを考えると、私は血の小便をしてでも家を護ろうと誓いました」と勲は言った。
文/宮本雅史