【特攻攻撃から80年】「わしは軍神になるんやぞ」と笑いながら出撃した息子を見送った母が三十三回忌で初めて流した涙

第2次世界大戦末期の1944年10月25日に最初の特攻攻撃が行なわれた。想像を絶する体当たり攻撃に出撃した隊員たちは何を思っていたのか。そして、残された遺族が心の奥底に秘めていた思いとは。

『「特攻」の聲 隊員と遺族の八十年』(KADOKAWA)より、今だからこそ明かされる貴重な証言の数々を一部抜粋、再構成してお届けする。

戦争の呪縛から解き放たれた母

昭和52(1977)年5月28日。自宅で長男の三十三回忌法要を終え、墓前で線香をあげようとした瞬間、75歳の母親は、長男の名前を繰り返し叫びながら、墓石にもたれかかるように泣き崩れた。

そんな母親の姿を家族が見たのは初めてだ。

激しくとり乱す母親に三男が掛け寄り、自分に寄りかからせてどうしたのか聞くと、母親は泣きながら、「今まで日本の国にあげた子供やったんや。天皇陛下にあげた子供やったんや。でも、今日の三十三回忌でやっとわしの子供になったんや」と答え、わっと大声を出して墓石にしがみついた。

「それまでは、手柄を立ててお国の役に立ってもらいたい、国の役に立ってくれたという嬉しさを持ってあったんやろな。だから、それまで兄の話をしても悲しむような顔を1つもしなかった。泣かないもんやと思っていた。

でも、自分の腹を痛めて産んだ子を思う気持ちはあるんだと。生みの親の姿を見た。びっくりしました。5分間ぐらい座り込んだまま泣いていた。その泣き声は今も耳に焼き付いています」

母親が戦争の呪縛から解き放たれた瞬間だった。その後は二度と恨み言を口にすることはなかった。

女性は中西時代(享年83歳)。時代の長男、伸一少尉(没後大尉)は、昭和20年5月28日、陸軍特攻隊第54振武隊の隊員として鹿児島県・知覧飛行場を出撃、沖縄近海で特攻を敢行、散華した。22歳だった。

中西少尉は和歌山県日高郡和田村(現・美浜町)出身で6人兄弟の長男だった。

地元の和田尋常高等小学校から日高中学校(現・日高高等学校)を経て、当時、小学校の校長をしていた父、介造(享年86歳)の後を継いで教員になろうと和歌山県師範学校へ。

昭和18年春、卒業すると、5月頃から母校の和田尋常高等小学校の教壇に立った。この年の10月、教員資格を取得し正式に教員となったが1ヵ月足らずで退職、陸軍特別操縦見習士官に志願した。

昭和18年秋は、戦況が激しくなっていた時期。

当時12歳だった三男の小松雅也は、ある夜、兄と父親が声を潜めて相談していたのをはっきりと覚えている。

「兄が父親に『戦争が激しくなってきた。教師をしているときじゃない。飛行兵にならにゃあ』と迫っていたのです。父親は黙ってうなずいていました」

小松は当時の2人の気持ちを、

「当時は国のために忠義を尽くせと教えられていたから、兄貴が飛行兵を志願したのは当然だった」

と振り返り、

「父親も母親も反対しなかった。むしろ喜んでいたと思う」

と続けた。

陸軍に進んだ中西少尉は三重県・明野航空隊と福岡県・大刀洗航空隊を経て鹿児島の知覧飛行場に配属される。

私が小松雅也から話を聞こうと和歌山県・美浜町を訪ねたのは戦後70年が経った平成27(2015)年。小松は当時84歳だったが、両親をはじめ中西少尉を取り巻く人たちの戦争と向き合う姿を詳細に語ってくれた。

小松の証言に沿って、少尉の行動と周囲の人々の心をたどりたい。

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「話がある。実は特攻隊を志願した」

少尉は、陸軍に進んだ後、知覧飛行場から出撃するまでに二度、実家に帰っている。

一度目は昭和19(1944)年暮れ。突然、実家に戻ってきた少尉は、両親や兄弟が揃うといきなり、「話がある。実は特攻隊を志願した」と告白した。

家の中は一瞬、静まり返ったが、父親の介造が、「そうか」と一言言って頷くと、母親の時代が「伸一、お国のためにしっかり手柄立てるんやで」と大きな声で言い、少尉の手を握りしめた。涙はなかった。

当時、中学3年生だった小松は、時代の毅然とした態度を覚えている。

「家族全員で頑張れと応援した。特攻隊は必ず死ぬのは分かっていたが、それより、息子に国のために役立ってもらいたいという思いの方が強かったのだと思う。兄貴の特攻志願は中西家にとって誇りだった。

当時はどこの家庭でもそうだったんでしょう。かわいそうとは思わなかった。私自身も、戦争が長引けば、当然、行くべきだと思っていたし、覚悟もできていた。男として当たり前の道だと思っていた」

少尉は1泊して帰って行ったが、家族で見送りをした記憶はないという。

年が変わり昭和20年になると、新聞やラジオは連日、特攻隊の出撃を報じた。

夕食時に父親が何度となく、「伸一もそろそろ突入する時分やろな。否、もう出撃したかもしれんな」と話すようになった。

時代も、「そうやな。もう突入しているかもな」と言いながら、蔭膳を欠かさなかった。

家族全員が、「兄貴はもう生きていないと半ば諦めていた」ところ、4月25日午後6時半頃、家族で夕食を食べているところに少尉が帰ってきた。

介造が立ち上がって、「伸一、どうしたんや」と、大きな声で呼びかけた。

聞くと、「九州で訓練中、飛行機の車輪が出なくなって、河原に不時着した。飛行機がもじけて(壊れて)しまったので、明野飛行場(現・三重県伊勢市)に新しい飛行機を取りに来たついでに立ち寄った」ということだった。

小松は振り返る。

「その時、父親が『そうか、それじゃあ上がれ。一緒に夕飯を食べよう』と言って、井戸に吊るして冷やしてあったビールを1本持ってきて、『伸一、1杯飲め』と言って、兄貴のコップに1杯ついだ。兄貴はそれを一気に飲み干すと『うまい』と一言言ったのです。その時の兄の表情と一言が今も忘れられません。だから、今も、兄の命日やお盆には、必ずビールを供えることにしています」

その夜、少尉と両親は夜が更けるまで話し込んだが、特攻の話は一切出なかった。

「特攻隊になったからといって、兄の態度は19年の暮れに帰って来たときと変わりはなかった。母は既に死んだとあきらめていた兄が生きて帰って来たからか、やはり、嬉しそうでした」

寝る前、「今回は編隊ではなく、1人だから、知覧に戻る時は何とか家の上空を飛んで行きたい」と両親に約束をして床についた。