「わしは軍神になる」
翌朝、小松は両親と弟ら4人で御坊駅で少尉を見送った。駅に向かう途中、悲壮感が漂うことはなかった。「わしは軍神になるんやぞ、神になるんやぞ」と笑いながら話していたという。
小松は、
「国のために働く喜び、特攻隊に選ばれたことへの誇りが伝わってきた」
と言いながらも、
「今から考えると、我々に心配をかけまいと明るく振る舞ったんだと思う」
と表情を曇らせた。
小松自身、そんな少尉の姿に、
「僕も後に続くという気持ちはありますし、それは男として当然、当たり前のことで、特別なことをするという気持ちは全然ありませんでした。兄は国のために命を捧げるというだけのことで、ただ、それは当たり前のことだから、特に変わった思いも起きなかった」
と言う。
汽車が到着し、少尉が汽車に乗ろうとすると、時代は改札口から身を乗り出し、大きく手を振って、「伸一、手柄立ててようっ」と声を振り絞って何度も叫んだ。
そんな母親の姿に小松は掛ける言葉がなかった。
「母親の横顔を見たら、全然、泣き顔ではなかった。涙なんか出る顔じゃなかった。とにかく、『手柄を立ててよ』って、何度も叫んでいた。今でもその時の母親の顔は忘れられない」
対照的に介造は、「行ってこい」と言って静かに手を振っていた。
その9日後の5月4日の昼頃、飛燕が1機、爆音を響かせて自宅上空に現れた。
低空飛行する飛燕の操縦席には中西少尉の姿があった。明野飛行場から知覧に戻る途中だった。
小松は用意していた日の丸を持って屋根に上がり振り回した。庭では時代が声をからし、大きく手を振っていた。
少尉も気がついたのだろう。自宅上空を4、5回旋回した後、母校の小学校の上を旋回して西の方向に飛び去った。
これが最後の別れだった。
6月中旬、中西家に2人の軍人が訪ねてきた。
「私たちは特攻機の護衛について行った者です。中西伸一少尉は、5月28日早朝、沖縄周辺海域で敵艦に見事命中して立派な戦死を遂げられました」
2人は中西少尉の最期を見届けた直掩機の搭乗員だった。
2人がこう報告するや、介造が返事するよりも早く、時代が、「そうですか。有難い。手柄を立ててくれたの、伸一。ようやった」と言って小躍りした。
「国のために役立ったのが嬉しいという気持ちだったのでしょう。子供に対する気持ちよりも国のために役立ったという気持ちの方が強かった。国のために息子が役に立ってもらいたいという一念だったんだなあと思いました」
小躍りする母親の姿を間近にした小松はこう振り返った。
特攻隊を志願した時も、御坊駅で最後の別れをした時も一切涙を見せず、突入の様子を聞いた時は小躍りした時代。
時代にとっては、三十三回忌法要までの32年間は、母親の気持ちを封印した時間だった。法要で流した涙で、ようやく戦争の呪縛から解き放たれたのかもしれない。
文/宮本雅史
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『「特攻」の聲 隊員と遺族の八十年』(KADOKAWA)
宮本 雅史
2024/10/41,870円(税込)288ページISBN: 978-4041150467
彼らは私たちに何を遺したのか? 特攻隊員たちの声なき声に耳をすます
【「エンジンのついた爆弾」で飛んだ男は、戦後三十年、誰にも語らず水道を整備した】
昭和19(1944)年、苦戦を余儀なくされる中で組織された必死必殺の「特別攻撃隊」。大戦中「軍神」として崇められ、戦後は戦争犯罪者と言われた隊員や遺族たちには、胸に秘め続けた想いがあった。
笑顔の写真を残した荒木幸雄、農場経営が夢だった森丘哲四郎、出撃直前「湊川だよ」とつぶやいた野中五郎……自らの命を懸けた特攻隊員たちは、私たちに何を託したのか? 30年以上にわたり元隊員と遺族の取材を続けてきた記者が、今だからこそ語られた証言に耳を澄ます。
最初の特攻出撃を見送った第一航空艦隊副官
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彼らの「戦後」は終わっていなかった――