120人の画家の手法を真似て贋作を描き、その作品数は300点にのぼる――そう豪語するのは、ドイツ出身の“天才贋作師”ヴォルフガング・ベルトラッキ氏(73)だ。彼の作品とみられる2枚の絵が、国内の公立施設で所蔵、展示されてきたことがわかった。さらにベルトラッキ氏は「日本には、私の絵がほかにもある」と主張しており、混乱は収まらない。問題の絵をつかまされた美術館は、「来館者にニセモノによる美術体験をさせてしまっていたら、お詫びのしようもない」とショックを受けている。
「証拠はない」とするも「俺が言っているんだから、間違いない」
前編で紹介した徳島県立近代美術館と高知県立美術館が所蔵する問題の2作品について、 ベルトラッキ氏は、「私の絵だ」と日本メディアの取材に答えている。
それだけでなく、日本にはフランスの女性画家マリー・ローランサン(1883-1956)の作品と偽った自分の絵もあると彼は言い始め、波紋はさらに広がっている状況だ。
彼が指摘するのは、1910年ごろの作品とされる『アルフレッド・フレヒトハイムの肖像』だ。しかし、絵を所有する東京のマリー・ローランサン美術館(2019年に閉館)の吉澤公寿・元館長は「ベルトラッキ氏は証拠を示しておらず、贋作とは認められない」と話す。
「問題発覚後の7月に、テレビ局が間に入って、オンラインで彼と直接話をしました。そのとき彼は『1988年にこの絵を描き、英国の画商に売った』と主張したのです。
しかし、私が『1988年の何月に描いたのか?』と尋ねても、何も答えない。なぜこの点が重要かというと、私どもは1989年1月にこの絵を購入しているんです。通常、油絵の具は乾燥するまで1年程度かかります。彼は1988年に描いたと言っていますが、購入時に『絵の具が新しい』などの不審な点は見当たらなかったんです」(吉澤氏)
すると、ベルトラッキ氏は「自分は絵の具を古く見せ、匂いもなくし、早く乾かす技術を持っている。それは他の人にはわからない」と主張したという。
そこで、吉澤氏が制作時の写真などの証拠があるかと尋ねると、ベルトラッキ氏は「ない」と答えつつも、「俺が言っているんだから、間違いない」と言ったという。
「購入時、この絵は“ドイツ人のコレクターがフランスの画廊に売り、それが日本の画商を通じて私どものところに入ってきた”という『来歴』がつけられていました。そこには、ベルトラッキ氏が主張する英国の画商は出てこない。来歴をつけることは、取引における道義です。フランスの画廊は欧州でも非常に有名で、その道義を裏切ることは考えられません。
基本的に彼の主張は『俺は天才贋作師なんだよ。一流の研究者や画商を騙せるテクニックが、俺にはあったんだ』というものです。
こうなると、彼の言葉の信頼性はなくなってしまいます。なので、作品の再調査は行ないません。ただ、展示するときには『ベルトラッキ氏が自分の作品だと主張している』という程度の説明は付けるつもりです」(吉澤氏)
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贋作が持つもっとも“罪深い側面”とは?
吉澤氏によれば、書類に基づいて取引された絵画の信用性を、ベルトラッキ氏が「俺が描いた」という言葉だけで揺さぶっているということになる。
贋作師からすれば、より多くの有名画家の贋作を描いたと主張することで、自身の腕前を誇示することになる。つまり“言ったもの勝ち”に近い状況になっているのだ。
この構図が、贋作の可能性が高いとみられる作品を所蔵している徳島と高知の美術館を難しい立場に追い込んでいる。ベルトラッキ氏の言葉を信じるわけにはいかず、例えば絵が描かれたとされる時期に使われた絵の具が存在したかどうかを確認するなどして科学的に真贋の決着をつけることが美術館側に要求されているのだ。
徳島県立近代美術館の竹内利夫課長(学芸交流担当)は、ベルトラッキ氏が日本メディアに贋作だと話したことについて「本当のことを言っているかどうか、わからないじゃないですか。加害者(贋作師)なんだから」と述べている。
また徳島県の後藤田正純知事は、「画廊というのかな、絵画をあっせんしている方には大変な責任があると思っておりますので、それは粛々と対応すべきだと思っております」と述べ、購入先の画商の責任を問う可能性を示唆している。
しかし、四半世紀前の取引に対して責任が問うことができるかは不透明だ。さらに、問題はカネの話にとどまらない。
徳島県は、キュビスムを提唱したパブロ・ピカソ(1881-1973)を本格的に日本に紹介した洋画家・伊原宇三郎(1894-1976)の出身地であり、県立近代美術館はピカソと伊原を軸にしたコレクションを進めていた。
その中で、大阪の画商からキュビスムの有名画家・メッツァンジェの作品があるとオファーを受け、購入するに至った。こうした経緯を説明した竹内氏は、贋作が持つもっとも罪深い側面について話す。
「“絵を観る”とは、『この時代にこんなんがあったんや』とか『この作家はこういうバリエーションも描いたんやな』とか、作品を介して対話し、美術や歴史を考え、内面生活を豊かにしていく活動じゃないですか。
芸術作品と魂で対話し、出合いを楽しもうというときに、(贋作とされる絵が)交ざっていたということなんです」(竹内氏)
コレクションでキュビスムの展開を紹介しようとした作品に、贋作の疑いが浮上した――。これについて「専門家として苦しいでしょう」と尋ねると、竹内氏は苦渋の表情を浮かべた。
「それを言うのもはばかられます。お客さんは『しんどいのはこっちや』と思っておられますよね。お客さんに『優れたものを購入できてよかったです。ぜひ見ていただきたい』と言って、作品にお墨付きを与えたのは私たちです。
それを味わってくださったお客さんに対して、お詫びのしようもございません。『お口汚しになったので、考えを差し替えてください』というわけにはいかないですよね。
美術が好きな人は、(作品を観ることで)心のアルバムに取り込みながら、人生の一部として体系を作り上げているわけじゃないですか。(そこに贋作を見せてしまったことは)消せません。その体験が沁み込んで(心の)地層の一部になっているから……」(竹内氏)