ウィリアム・ホガースの描いた風俗画、公開処刑を見物する人々が描かれている / credit:wikipedia
現在公開処刑が行われている国はわずかであり、その国々でも娯楽として扱われることはありません。
しかし近代のイギリスでは、公開処刑が行われただけではなく、なんとそれが娯楽として扱われていたのです。
果たしてどのような雰囲気で公開処刑が行われていたのでしょうか?
本記事ではイギリスの公開処刑の歴史について振り返りつつ、公開処刑がどのように娯楽として扱われていたのか、公開処刑が無くなった後は何が代わりに娯楽として扱われるようになったのかについて紹介します。
なおこの研究は東京大学大学院教育学研究科紀要45巻p.1-9に詳細が書かれています。
目次
まるでイベントみたいに行われた公開処刑公開処刑廃止後は裁判傍聴とブロードサイドが人気に
まるでイベントみたいに行われた公開処刑
ウィリアム・ホガースの描いた風俗画、公開処刑を見物する人々が描かれている / credit:wikipedia
中世から近代のイギリスでは公開処刑が行われていました。
その中でも有名なのがロンドン郊外にあったタイバーン処刑場であり、そこで多くの犯罪者が処刑されたのです。
なおこれ以前のイギリスでは死刑は集落ごとに慣習的な復讐の一環として行われており、タイバーン処刑場ができたことによって死刑執行は慣例的な復讐から刑事司法の一環へと変わっていったのです。
タイバーン処刑場では主に政治的および宗教的犯罪者が処刑されてしましたが、16世紀初頭からは処刑前に絞首台上で犯罪者が最後に言い残したことをいう機会が与えられるようになりました。
ここでは犯罪者が主に罪の告白と懺悔の言葉を述べ、それによって犯罪者の魂が救済されると信じられていたのです。
この演説はやがて一般化され、教誨師(受刑者に、悪を悔い正しい道を歩むように教えさとす人)によって事前に準備されるようになりました。
そして17世紀には国事犯だけでなく一般の重罪犯にも適用されるようになったのです。
フランスの哲学者のミシェル・フーコーはこの公開処刑について「見せしめということを狙った」「処罰の儀式における結果」と表現し、あえて残虐な刑を公開することで、「悪いことをするとこうなるのだ」という見せしめの効果があったのではないかと指摘しています。
やがて18世紀に入ると、絞首台での演説は次第に減少し、死を前にした態度が注目されるようになりました。
観衆は犯罪者の振る舞いに興味を持ち、彼らが立派に振舞えば喝采し、そうでなければブーイングが巻き起こったのです。
公開処刑は改悛の舞台から、犯罪者が死に向かって勇気を示す舞台へと変質し、世俗化した政治的儀式となりました。
18世紀における公開処刑は、例えばタイバーン処刑場では年に8回行われ、国民の休日となる「タイバーン・フェア」と呼ばれる出し物として行われました。
処刑前夜からは場所取りが行われ、一晩中パーティが繰り広げられたのです。
またタイバーンの住民は処刑を見物するために大きな観覧席を設置し、そこの席料をとって金儲けをしていました。
しかしある時この急ごしらえで作った観覧席がいきなり崩壊し、約100人が命を落とすという痛ましい事故が起こりました。
それでもこれを契機に処刑見物という風習が無くなることは無く、それ以降もロンドン市民の一般的な楽しみとして続きました。
公開処刑は国家行事ではあるものの、人々にとっては娯楽の一環となり、「殺人はなんといっても第一に、大衆娯楽だったのだ」とされました。
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公開処刑廃止後は裁判傍聴とブロードサイドが人気に
イギリスの裁判所、近代では裁判を傍聴するために上・中流階級の人が並んだ / credit:wikipedia
しかし1783年、ニューゲイト監獄の再建に伴い、公開処刑は監獄前の広場で行われるようになり、タイバーン処刑場は閉鎖されました。
これにより、見物人の数も相対的に減少し、以前のお祭り騒ぎ的様相は和らいでいったのです。
また同時に、公開処刑に対する抑止力への疑問が生まれており、刑罰の秘密化が進行しました。
それらに代わって犯罪をモデルにした演劇や刑死者の死体解剖などといったことが行われたりもしましたが、あまり定着することは無かったようです。
公開処刑に代わって人気になったのは裁判傍聴であり、医学の進展と相まって、精神性や人間性に焦点を当てた審議が行われ、裁判所の傍聴が流行しました。
しかし、裁判傍聴は無料であったものの、あくまで中・上流階級向けのものであり、労働者階級には少ない座席しか用意されていませんでした。
また有名な事件の裁判の場合は傍聴チケットを転売して金儲けをする人も多く、転売されたチケットはとても労働者階級の人に手に入る価格ではなかったのです。
労働者階級の人にとって公開処刑の代替の娯楽になったのは、ブロードサイド(現代日本でいうタブロイド紙)です。
ブロードサイドは、処刑者の詳細情報や最期の言葉を提供し、労働者階級にとっての速報ニュースとなりました。
しかしこのブロードサイドは面白くするために処刑者のプロフィールや最期の言葉を誇張したり、でっち上げたりしていますので、信ぴょう性はあまりなかったようです。
それでもロンドン市民の娯楽として、かなりの売れ行きを誇りました。
公開処刑はやがて犯罪者のプロフィールを晒して弄ぶ方向へと変化していった。週刊誌やネットの炎上はこの延長にあるのかもしれない。 / Credit:canva
昔のイギリスの人が公開処刑を娯楽として捉えているのは現代の私たちとは大きく感性が異なっているように感じます。
しかし現代でも炎上した有名人に誹謗中傷を行ったり、炎上した人の経歴についてあることないことが綴られたまとめサイトが作られたりしていますので、私たちは昔のイギリス人と根本的なところは変わっていないのかもしれません。
参考文献
東京大学学術機関リポジトリ (u-tokyo.ac.jp)
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/31354
ライター
華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
編集者
海沼 賢: ナゾロジーのディレクションを担当。大学では電気電子工学、大学院では知識科学を専攻。科学進歩と共に分断されがちな分野間交流の場、一般の人々が科学知識とふれあう場の創出を目指しています。