石野真子 長渕剛(C)週刊実話Web
芸能人カップルの結婚、離婚はいつの時代も注目の的。中でも「100万ドルの微笑」で、70年代後半から80年代前半にかけて人気を博した石野真子と長渕剛の結婚&離婚劇は、ファンに大きな衝撃を与えた。
当時、本誌もその「離婚の真相」にも大きく斬り込んでいたのである。
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【昭和59年1月17・24日号掲載『1985不一致に泣いたスターの離婚の真相はこうだ!!』年齢・肩書等は当時のまま(一部割愛や表現を訂正した箇所があります)】
長渕剛が再三、呼びかけても石野真子は身を寄せた吉田拓郎宅から一歩も出ようとしなかった。
なにしろ一時的に拓郎宅に身を寄せていたのではない。
拓郎は剛の師であり、ふたりは同じユイ音楽工房に所属していることから、離婚にともなう諸問題を煮詰めるには、拓郎宅に身を寄せるのが最適と真子が判断した結果だ。
当時、まだ拓郎夫人だった浅田美代子が真子の親友という事情もそれに絡んでいる。
真子は、拓郎宅を一歩も出ようとしなかったばかりか、ちゅうちょなく離婚届に判を押した。
58年5月のことである。早いものでそれから2年近くになる。
その間、拓郎と美代子夫妻も離婚した。59年8月のことだ。呆れるほど結婚生活が乱れている結果のように思われる、この2つの離婚劇と指摘できなくもない。
離婚後の真子は、まるで既定方針のように芸能界にカムバックした。
まずそれをファンに、お茶の間に知らしめる意図でテレビの連続ドラマに出演し、前後して歌も歌った。
「さよなら公演ライブ」のLPがバカ売れ
が、結婚前の典型的なアイドル歌手としてつかんでいたファンの一部を呼び戻すことははかなき夢だった。
それを知ったテレビ局は途端に冷たく扱うようになった、というのが現実だ。
当然のこととはいえ、真子は親しい知人にこんなグチをぶつけたと言われている。
「結婚してよかったと思ったのは、1年ちょっとの実生活の初めの数カ月だけ。そんなことも分からずに結婚を、周囲の強い反対を押し切って急いだ私が浅はかだったのね。後悔しています。つくづく結婚なんかすべきでなかったと…。結婚しないであのまま歌手でいればと思うと悔しくってね」
確かにそうかもしれない。離婚を念頭に家出した直後に、ビクターから発売されたLP3枚組、4500円の『石野真子・さよなら公演ライブ』の売れ行きをみても、予約予想2000組は簡単に突破し2万組に達したほどなのだ。
「もし、彼女がカムバックしたら、結婚前の人気はすぐにでも期待できますか」とビクターの関係者に水を向けたところ、「まだ離婚したわけでないのでカムバックはあり得ないという以外にないが、カムバックしたら即、戦力。本心を言えばそうなってほしいですよ」とはっきりといったのも、LP3枚組の売れ行きが素晴らしかったからにほかならない。
だが、ビクターの関係者と同様、真子がその売れ行きで「いま離婚して芸能界にカムバックすれば…」といった気持ちを持つようになったことは否めず、それで思い切って決断した結果はとなると現実は甘くはなく、むしろ厳しすぎるほど冷たい寒風にさらされているのだから、人間の運命なんて“一寸先は闇”なのだ。
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世間を騒がせて結婚した責任
もっとも、真子が離婚しようとしたのは、芸能界にカムバックしたいからではなく、剛との結婚生活が理想とあまりにもかけ離れていたからにほかならない。
剛の実母が同居しているために遠慮があって、真子は甘えることができなかったのが現実だった。
「離婚したときの彼女のやせようったらなかったわね。あれは姑との同居がもたらした結果です。ああまでやせてしまったわけで、責任は全て彼にあるんですよ。あれではいくら愛し合って結婚してもうまくいきっこありません。1年ちょっとの結婚生活だったけれど、むしろそれだけよくも耐えたものと感心してるほどなんですよ。私ならばせいぜい1カ月ぐらい…。彼女がそれだけ耐えたのは、おそらく世間を騒がせて結婚した責任意識からでしょうね。それを彼女はいま、間接的な言葉で嘆いているんです。直接的な責め言葉を並べるのは簡単と知りながら、並べれば“バカな女”と逆にののしられると分かっているだけにそれができない。つらい立場にあるんですよ」(前出・真子の友人)
泣かせる言葉であり、真子にとってはありがたい友人だ。
まだまだ若い真子のこと、剛との結婚生活の失敗は貴重な経験であり、きっと役立つことはある。
それによって一回りも二回りも大きく成長して、立派なタレントに育ってほしいものだ。