「あんな選手を使いやがって」中日・立浪監督が3年連続最下位でも正しい野球理論を備えていたといえる2つの理由

2022年に中日ドラゴンズの監督に就任した立浪和義氏。長らく続く低迷を打破すべく、大きな期待を背負っての船出となった。しかし、多くのファンの期待とは裏腹に3年連続で最下位に沈み、今季限りでの退任を表明。立浪監督に足りなかったものは何だったのか。

野球解説者の江本孟紀氏が解説した『ミスタードラゴンズの失敗』(江本孟紀)より一部抜粋・再構成してお届けする。

「あんな選手を使いやがって」という声を、私はこう考える

プロ野球の監督というのは難しい職業だ。「勝てば官軍、負ければ賊軍」、まさにこの言葉がぴったり当てはまるからである。

2022年から中日で指揮を振るっていた立浪監督を見るたびに、私はこの思いを強くしたものだ。

「ミスタードラゴンズ」の看板を背負って、監督就任の際には三顧の礼で迎えられ、それまで活躍できていなかった新たな若手選手を発掘、グラウンドで躍動し、チーム成績はみるみる上昇していく―。多くの中日ファンは、そんな思いを描いていたに違いない。

だが、結果はまったく違った。2022年、23年シーズンと連続で最下位に沈み、24年シーズンも開幕当初こそ首位戦線に躍り出て、「今年は違うぞ!」というところを見せていたのだが、シーズン半ばが過ぎて佳境に入ってくると、気が付けばヤクルトと最下位争いを演じ、4年連続でのシーズン負け越しと3年連続の最下位が決まった。

「今年はこんな中日になるはずじゃなかった」

そう考えるのはファンだけではなく、立浪監督以下、首脳陣もそうした思いにいたっているはずだ。

監督に就任して1年目に最下位に沈んだときには、「来年からが勝負だ」と多くのファンが好意的に受け止めていたが、2年目になると「おいおい、今の采配は何だったんだ?」と疑問を呈する声が増え、3年目になると「いい加減にしろ」「もうダメだ」と、退任論が浮上してきた。

たとえば、試合終盤の中日攻撃時にチャンスの場面が訪れたとする。そのとき代打策をとったものの、思うような結果が出せなかった。するとファンからは、

「こんなに絶好のチャンスにあんな選手を使いやがって、何を考えているんだ」といった、文句の声が高らかに出てくる。2022年から23年シーズンの間、中日の負けが込んできたとき、お決まりのようによく聞かれた。

だが、私に言わせれば、こんなことなど一笑に付してしまう。なぜなら立浪監督は、チャンスの場面で期待を込めて起用してみたわけで、責任があるとしたら、監督よりもその場面で結果を出せなかった「あんな選手」ということになる。つまり、非難の声を向けるのであれば、監督だけでなく、選手にも同時に発しなければならないというわけだ。

しかし、今は試合結果がよくない場合は、選手以上に監督に批判の声が向けられがちだ。2023年シーズンでいえば巨人の原辰徳監督がまさにそうだったし、24年シーズンは立浪監督にそうした声が向けられた。それだけに、「監督というのはしんどい職業だな」と思わずにはいられないのである。こうした批判の声はすべて正しいのかどうか、私は疑問を抱かざるを得ない。

(広告の後にも続きます)

立浪監督は「正しい野球理論を備えた監督」である

立浪監督に対する批判において、多く聞かれたのが「指導手腕を疑問視」する声だった。「選手に厳しすぎるじゃないか」「自分が掲げる高い理想を、選手に押し付けすぎていないのか」―。そんな声も聞かれたし、挙句には「実は立浪監督は怖い人なんじゃないのか」と、一方的な人格批判を繰り広げる人まで出てきた。

けれども、私はこうした声には「ノー」と否定しておきたい。それには二つの理由があるからだ。

まず「選手に厳しすぎるのじゃないか」「自分が掲げる高い理想を、選手に押し付けすぎていないのか」ということについては、「正しい野球理論を備えている」と言いたい。

打撃にしろ、守備にしろ、彼の考えには納得のいくものが多い。たとえば打撃については、体の開きを抑えるコツや、バットを強く振る方法、相手投手のウイニングショットを打つ秘訣など、彼なりの理論をきちんと備えている。

ここでは詳しい技術は省かせてもらうが、彼が高い技術を追い求めていることは、一緒に解説をして話を聞いているなかでよくわかった。そのうえで、

「バッティングは十人十色。『こうすれば必ず打てる』という絶対的な打ち方はない」

ということも、立浪本人はよく理解していた。

2023年シーズンまではよく、「立浪は監督という立場で選手に打撃技術を指導していた」という記事を目にすることがあったが、個々の選手の特性を見抜いたうえでアドバイスしていたということも、旧知の記者たちからたびたび聞いていた。

それだけに、中日ファンが言うほど、間違った理論を押し付けているようなことはなかったと、私は見ている。