日本におけるアメカジブームの礎を築き上げたリビングレジェンドたちの貴重な証言を、「Pt.アルフレッド」代表・本江浩二さんのナビゲーションでお届け。今回ご登場いただくのは、元ビギン編集長・児島さん。まだネットではなく本人の貪欲な好奇心と抜群のフットワークで情報を掻き集め編集してきた氏のあの時代の話を聞いてきた。
Introduction/本記事ナビゲーター「Pt.アルフレッド」代表・本江さんと児島さんとの関係とは?
三浦哲也さん著『自炊者になるための26週』の一節、“シェアすべきなのは、パーツではなくて、ホール(丸ごとの流れ)です”。最近、改めて考えてしまうこのキーワード。
本連載では洋服業界の御大を紹介させてもらってますが、今回は2007年の2nd創刊前に、メンズファッション業界の『丸ごとの流れ(ホール)』を、まだネットではなく本人の貪欲な好奇心と抜群のフットワークで情報を掻き集め編集してきた元ビギン編集長・児島さん。
「装苑」編集長もついこの前、退職されて〈Zoff〉に転職。このタイミングならと久しぶりに電話してみました。あの時代のことをキチンと書いてくれるならと快諾。取材時は勉強のためと編集部員全員同席で書けない話もたくさん出ましたが、絞りに絞っても特別拡大版になりました。
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ファッション編集者を志したつもりはない。
児島幹規|1968年生まれ、岐阜県出身。大学在学中に編集アシスタントを経て1992年に世界文化社入社、『Begin』編集部配属となる。2004年から『Begin』編集長、2009年『MEN’S EX』の編集長を歴任。2013年、文化出版局に。出版事業部長兼『装苑』編集長を10年勤めたのち、2024年7月「Zoff」を運営するインターメスティックのCDO 兼 制作本部長に。また大阪文化服装学院の特別教員兼戦略スーパーバイザーにも就任
2004年より雑誌『Begin(ビギン)』の編集長として、男性ファッション誌におけるひとつの黄金律を確立した児島幹規さん。圧倒的な情報量と物欲を掻き立てるワードセンスで読者を総識者化させ、就任当時には最高発行部数を叩き出した手腕の原点と、ファッション、そして出版メディアへの思いを訊いた。大学在学中より出版メディアに携わり、出版業界と広告代理店に絞って就職活動をした結果、1992年に世界文化社に入社。同年、ビギンへの配属が決まったものの「ファッション誌の編集者を志したつもりはなかった」と振り返る。
「大学在学中に編集アシスタントを経験し、出版業界に興味を持っていたことは事実ですが、当時携わりたかった雑誌は『SPA!』でしたし(笑)、配属先としてたまたまビギンに籍を置くことになりました。当時(1988年創刊)の同誌は完全なる“モノ”雑誌で、車、時計、パソコン、カメラ、靴、鞄などが軸でした。
編集長になる2004年までの12年間、一度も異動がなかったのは、上司に重宝がられたからだと思います。スタイリストに頼まずモノを選び、原稿もほとんど自分で書くから経費が浮きますよね(笑)。1997年に英国まで〈グローブトロッター〉の工場に行った時も、出張申請していません。
理由は行かせてもらえなかったからですが、それならばと休みにして行くのですから、扱いにくい部下でもあったかも(笑)。ダウンジャケットを誰も着ていない時代に〈モンクレール〉を仕掛けた後、ダウンの良し悪しを知りたくてハンガリーにも勝手に行きましたが、そこで“フィルパワー”という単位を知り、世に広めるきっかけになりました。
前述の通り、僕はファッション編集者を志したつもりはなかったですが、編集長になってからモノを軸にしつつもファッション寄りに軌道修正したとは自負しています」