アメトラ復興は市場へのアンチテーゼ。
2000年代初頭、男性ファッション誌は大きく二分され、裏原宿の余韻を残したストリート&カルチャー、バブル期を通過した中年層向けモテ&ラグジュアリーが主軸となり、往年のアメトラやアメカジが鳴りを潜めるなか、児島さんは編集長に就任。
同誌のアイデンティティでもあった“モノを愛でる”感覚を、時の気運に迎合することなく、いかに独自性を打ち出すかが最たる課題だったという。
「他誌と差別化を図りながら部数を伸ばすために考えたのは、当時ダサいとされ、売れていないもの中から、いいものを選びフォーカスすることでした。多くの雑誌はブランド名や見た目でモノを紹介しているからこそ、モノを愛でる感覚を持つ、見た目だけを価値基準にしない人々にどうアピールできるかを考えた末、イタリア一辺倒の時勢に、語り継がれる背景を持ち、長年愛し続ける人たちがいるアメリカ推しをはじめました。
それは自らの価値基準を持たず、見た目や高価なモノになびく人々に対するアンチテーゼでもあったと思います。その最たるが、デニムのロールアップでした。当時主流のデニムは海外セレブが穿くようなブーツカットばかりでしたが、あえてワンウォッシュかリジッドのストレートに絞り、当時最もダサいとされていたロールアップを推しました。その企画を見た他誌の編集者から「あんなカッコ悪いことよくできるね」と笑われましたが、半年後には日本中でロールアップが主流になりました(笑)。
僕は30代になった頃、下の世代、いわゆるチーマーやスケーター世代の感覚が全くわからずにいました。そこで仕事終わりの深夜に渋谷のセンター街や池袋に出向き、彼らのスタイルを観察したのです。夏の暑い時期はTシャツとショーツに足元は〈ヴァンズ〉だったのが、季節の移り変わりとともにTシャツの上にパーカを羽織りショーツがヴィンテージデニムになり、足元はくるぶし丈のスニーカーへ。
その世代はスタイルを大きく替えるのではなく、足し算していることに気が付けました。その感覚を持つ世代に向けて、彼らの足し算を逆手に取ったのがロールアップだったのです。デニムをロールアップさせれば、靴はロングノーズではなく、当時誰も履いていなかった〈オールデン〉や〈クラークス〉や〈ニューバランス〉などのラウンドトゥになるだろうと。
アメリカのトラディショナルに触れてもらうことが、人々の興味をモノの本質に戻しやすいという計算もあったとは思います。僕らよりも上の先輩方が影響を受けた、戦後のアメリカのカルチャーが今日のメンズカジュアルの軸となっているのは疑いようのない事実ですし。
自分で言うのもなんですが、あのタイミングでロールアップを仕掛けていなかったら、それからのアメカジやアメトラの復興はなかったのかもしれませんね(笑)」
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アメリカ製ではなくアメリカ的という解釈。
また、当時の気運を語る上で欠かせない出来事のひとつが、消えゆく本国メイド。多くのブランドがコスト面や生産効率、リスク分散を理由にアジアや途上国へと生産拠点を移し、由緒正しき純アメリカ製や純英国製のプロダクトは次第に市場から姿を消していった。
「2000年代初頭頃から〈ヘインズ〉〈ヘルスニット〉〈コンバース〉など、名門や老舗と呼ばれる多くのブランドが生産拠点をアジアへと移していきました。米国製でなくなったから買わないという声がある中、編集者としてそのブランドやプロダクトが継続されることをどう受け止めるべきなのか。
当時「ビームス」とのダブルネームで話題になった〈アンディアモ〉(ミルスペックなバリスティックナイロンを用いたアメリカ製バッグブランド)がなくなる際、セルツの中川さんが同素材を使ったアメリカ製ラゲッジをなんとか世に残そうと日本企画で始めたのが〈ブリーフィング〉でした。
僕より上の世代に根付いている“ねばならない”という感覚を以てするなら、それらは買うに値しない、似て非なるモノになんでしょうけど、“昔は良かった”と語る人たちに耳を傾けないタイミングをどこかで作らないと未来がないと考え、米国製も米国製でなくなったものも一緒に紹介するために“アメリカ的ブランド”と名付けた苦肉の策が価値観を変えるきっかけになりました」