加山雄三
神奈川県のJR茅ケ崎駅北口(改札出口2階)を出たところの通路に、同地ゆかりの人物たちの手形レリーフが並んでいる。
最初に手形を設置されたのは“永遠の若大将”こと加山雄三だった。
加山は地元とのつながりを大切にし、芸能生活50周年を迎えた2010年には、茅ヶ崎市民栄誉賞が贈られ、24年には茅ヶ崎市役所前の広場に、エレキギターを手にした加山の銅像も建てられた。
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誕生日に執り行われた銅像の除幕式に参加した加山は、「こんなに感激する誕生日は生まれて初めてです。『幸せだなあ』とだけ言わせてください」と笑顔であいさつした。
国民的スターであると同時に、地元からも愛される。まさに「人生の成功者」といった様相の加山だが、その歩みは決して順風満帆というわけでもない。
戦前から活躍する俳優・上原謙の長男として生まれた加山は、60年に慶應義塾大学を卒業すると東宝へ入社し、すぐに俳優としてデビュー。翌年からは加山の代名詞となる『若大将シリーズ』がスタートする。
同年には歌手デビューも果たし、65年末に発売の『君といつまでも』は350万枚超の大ヒットとなり、翌年『NHK紅白歌合戦』にも初出場している。
この勢いに乗って加山は、叔父が中心となって開業した『パシフィックホテル茅ヶ崎』の共同オーナーとなる。
このホテルはボウリング場やプール、ビリヤード場などを併設し、アメリカ西海岸風の高級リゾートをイメージして設計された当時の最先端であった。
会社の倒産、大事故にも遭遇
しかし、70年に同ホテルの運営会社が倒産し、ホテル売却後も借金が残って、加山は巨額の負債を抱えてしまう。
しかも、翌年には『若大将』シリーズが、人気低下により終了。そのため一時期は、キャバレーやナイトクラブ回りで糊口をしのいでいた。
74年の正月休みには、妻と出かけた北海道のスキー場で、圧雪車に轢かれる大事故に見舞われた。
横向きに倒れたため、肩の骨折による1カ月の入院で済んだが、もしも仰向けで轢かれていれば内臓破裂で即死していたかもしれない。
それでも借金がある以上は働き続けなければならず、映画出演の機会が減った加山は活動の場をテレビにシフト。時代劇『江戸の旋風』シリーズ(フジテレビ系)やデンセンマンで一世を風靡した伝説のバラエティー番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!!』(NET系からテレビ朝日系)などにも出演した。
こうしたテレビスターとしての活躍もあって、86年からは3年連続で『NHK紅白歌合戦』の白組司会を担当した加山だが、ここでも大失態を犯してしまう。
86年に白組のトップバッターを務めた少年隊を紹介する際、あろうことか「張り切って行こうぜ! 紅白初出場、少年隊の『仮面ライダー』です!」とノリノリで言い放ってしまったのだ。
もちろん、正しい曲名は『仮面舞踏会』である。
大舞台での衝撃的な言い間違いは、年が明けた正月のお笑い番組などでも盛んに話題にされた。
加山はリハーサルのときから「まるで『仮面ライダー』みたいだな」とつぶやいていたそうだが、本番では間違ったことすら気づいておらず、スタッフに誤りを指摘されても「ああ、そうか」と鷹揚に答えただけだったという。
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進取の気性と前向きな性格
18年には静岡県の港で、実質的なオーナーとして所有していたプレジャーボート『光進丸』が炎上して水没。火災発生直後の会見では「相棒が消えていくのは本当につらい」と、沈痛な面持ちを見せた加山だったが、後年には「つらい境遇でも頑張って生きている人はたくさんいらっしゃる。皆さんを励ますために歌うのが、残された僕の役割だと思うようになりました」と話している。
莫大な借金や国民的番組での失態、愛船の火災事故など、普通の人間ならどれか一つだけでも心が折れてしまいそうなものだが、そこで気持ちを切り替えられるのが加山の長所だろう。
若者向けの音楽やビデオゲームなど、常に新たなカルチャーに興味を示すあたりも、前向きな気持ちでいられる秘訣なのかもしれない。
19年に軽い脳梗塞、20年には小脳出血を起こしたことから、「歌えるうちにやめる」とコンサート活動からの引退を決意。それでも最後のステージのために懸命なリハビリを続け、22年8月には日本テレビ系『24時間テレビ 愛は地球を救う』でテーマソングの『サライ』を歌唱。同年大みそかの『紅白歌合戦』で歌手活動の幕を下ろした。
加山は今年4月、米寿目前の87歳にして100歳まで生きると宣言。そのためには「守りに入らずに攻めなくてはいけない」と思い立ち、トレーニングを強化しているという。
文/脇本深八
「週刊実話」11月7・14日号より
加山雄三(かやま・ゆうぞう)
1937(昭和12)年4月11日生まれ。神奈川県出身。慶應義塾大学卒業後、’60年に東宝と専属契約を結び芸能界入り。翌年に映画『若大将』シリーズがスタートし、約20年で17作に主演。歌手デビューも果たし、『君といつまでも』『お嫁においで』『海 その愛』などヒット曲多数。自ら作曲(弾厚作名義)も手がける。