越路吹雪の世界観を作った最高のチーム
越路吹雪は10代半ばから50代半ばで短い生を終えるまで、常に舞台人であったがゆえに、ときには人並み以上の悲しみや苦しみを背負って生きてきた。
人生での様々な体験を糧にしながら、それらを乗り越えて、多くの人々の前で歌って演じた。そのことで観客を楽しませて喝采を浴びてきたが、その分だけ自分自身の生命を削ってきたともいえる。
越路吹雪はトップスターだった。圧倒的な表現力と歌唱力。一流の劇場で一流のドレスを身にまとって行なうコンサート。
「越路吹雪の公演チケットは日本一手に入れにくい」とも言われた。その出演料の高さも他のスターの追従を許さなかった。
1966(昭和41)年の開演以来、ロングランを続けていた『越路吹雪リサイタル』を演出していた浅利慶太は、公演が十数年にわたって大成功した原因を、「優れた才能が集まったチームワークの勝利」だと述べている。
マネージャーで作詞と訳詞を行う岩谷時子。
演奏と作曲および編曲・指揮を担当する夫の内藤法美。
天才的なディレクターだった渋谷森久。
美術家の金森磐。照明家の吉井澄夫。
浅利を含めて、才能に溢れた不動のメンバーが周りに揃っていた。
越路吹雪の世界は、彼女ひとりで創り上げたものではなく、彼女を理解したスタッフがみんなで支え合うチームになって創り上げられたものだった。
岩谷が作詞家となるきっかけとなったのは、宝塚歌劇団を退団した越路がシャンソンを題材にしたレビュー『巴里(パリ)の唄』(1952年)で、トリを務める大役に抜擢されたことだった。
その時に、越路が歌うことになったエディット・ピアフの『愛の讃歌』に、日本語で歌えるようにと訳詞を書いたことがきっかけで、岩谷は作詞家の道を歩むことになった。
岩谷の書く詞は、女性ならではの視点と感性で、男性中心だった日本の音楽シーンに新しい風を吹き込んだ。しかしそれでも、岩谷は自らのこと聞かれると、「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。
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越路と岩谷の友情が続いた理由
昔から「女同士の友情は成立しない」「長くは続かない」とよく言われていたものだが、越路と岩谷は宝塚歌劇団の屋根の下で出逢って以来、喜びも悲しみも共にして生きてきた。
1959(昭和34)年には、越路の結婚という大きな転機があったが、それを機にお互いが相手を思いやるようになり、ますます友情を深めていったという。
岩谷は著書『愛と哀しみのルフラン』の中で、結婚と二人の信頼関係についてこう記している。
“私たちの場合、かえってそれが友情を深める絆になり、大人の女同士の友情は歳と共に成長し深くなっていったとさえ思われる。
私は、心の中では、いつも保護者のつもりでいたが、人生経験は越路さんの方が豊かで、教えられることが多かった。
長い年月の間、お互いに裏切ることも裏切られることもなかったのは、ひたすら信じあっていたからではなかっただろうか。この信頼感は、やはり長い歳月の上に培われ積み上げられてきたものだったと思う。”
岩谷はどんなに親しくても、「その人の生活に土足で踏み込んではいけない」というルールを自分に課していた。それを最後まで貫き通してきたからこそ、越路との友情を全うすることができたのだ。
岩谷は共に歩んだ生涯の友との間で、一つ約束したことがあったという。
“歳をとって、仕事をしなくてもいい時が来たら、2人で外国へ旅をしようというのが、私たちの約束だった。彼女は歳とともに、ますます素敵になるはずの人であった。”
しかしながら、その約束は叶わないままに終わる。
1980(昭和55)年11月7日、越路吹雪は癌と闘いながら、燃え尽きるようにひとり旅立ってしまったのだ。
越路が亡くなった後、岩谷時子は悲しみの底に沈んだ。そして孤独の中で『眠られぬ夜の長恨歌』を書いた。立ち上がった作詞家は復活し、再びミュージカルの仕事で活躍。2013(平成25)年10月27日、永遠の友のもとへ旅立った。
文/TAP the POP サムネイル/2012年11月7日発売『越路吹雪ベスト100』(UNIVERSAL MUSIC)
●参考・引用文献
岩谷時子著『愛と哀しみのルフラン』(講談社)
浅利慶太著『時の光の中で 劇団四季主宰者の戦後史』(文藝春秋)
越路吹雪・岩谷時子著『夢の中に君がいる―越路吹雪メモリアル』(講談社)
江森陽弘著『聞書き 越路吹雪 その愛と歌と死』(朝日新聞社)