20年前の1994年、プロ野球界は激震に見舞われた。近鉄本社が球団をオリックスへ譲渡しようと画策したのを契機に、水面下で1リーグ制へと突き進んでいく。選手会はストライキを実施し、世論もこれを支持。最終的には楽天球団が参入することにより、2リーグ制が維持されることになった。このとき、楽天球団の初代監督として“火中の栗”を拾う形となったのが、田尾安志だった。
近鉄とオリックス、ダイエーとロッテが合併して1リーグへ
プロ野球選手会労組の立ち上げにおいて、委員長の中畑清を中心とした同世代のグループ、1953年度生まれで構成されたいわゆる「プロ野球28会」(にっぱちかい)が勇躍したことはすでに記した。
結成時が1985年であり、当時各所属球団ですでに脂の乗り切った主力となっていた真弓明信(阪神)、梨田昌孝(近鉄)、落合博満(ロッテ)らの発言力は強く、選手たちの意見の集約やフロント経営陣に対する折衝に辣腕をふるった。
この28会で忘れてはならない人物がいる。田尾安志である。
創設時、田尾は会計監査役として選手会組織を支え、東京都労働委員会による労働組合認定(1985年11月5日)に寄与する。このときは裏方であったが、真の貢献はそれから19年が経過した2004年にある。
この年、日本プロ野球界は激震に見舞われた。シーズンも最中の6月に日本経済新聞が、「近鉄本社がバファローズをオリックスへ譲渡する交渉を進めている」とのスクープを飛ばした。
近鉄球団はこの頃、年間約40億円の赤字を出し続けており、同様にイチローのメジャー流出によって観客動員の落ち込みに苦しんでいたオリックスに合併の話を持ちかけていたのである。
球団を手放すにあたり、新規企業による買収ではなくて合併を狙ったのか?
当時の野球協約には、買収の場合は買収費用の他に30億円、新規参入には60億円の加盟料を支払うという決まりがあった(現在は制度が見直されて預かり保証金25億、寄付4億、手数料1億で計30億円)。
それが合併ならば無償で済む。プロ野球界からの撤退を前提にするのであれば、買い手をゼロから探すよりもその方が現実的な選択と言えた。
しかし、合併は12球団のうちの一つが消滅することを意味する。ここでの球団減は、47年間に渡って続いて来たセントラル、パシフィックのそれぞれ6球団、2リーグ制から1リーグへ移行する流れに連なる、との指摘が一報を飛ばした記者たちからなされた。
事実、すでに経営難に苦しむ福岡のダイエーも球団を手放すことを決めており、ロッテが合併に向けて動き出しつつあった。
『2004年のプロ野球―球界再編20年目の真実』(山室寛之著)によれば、当時ロッテの球団社長だった濱本英輔は瀬戸山隆三代表を呼び出し、「我々は(ダイエーにとっての)白馬の騎士になる。合併すれば選手がはみ出るので、球団に残すべき選手の選別と、ダイエーの王監督とうちのバレンンタイン監督のどちらを選ぶのか、至急原案を作って欲しい」と告げたという。
選手やファンの伺い知れぬところで、オーナー側は10球団による1リーグ制への道筋をほぼ敷きつつあった。
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「楽天は紛れもなく、12球団で最も乏しい戦力になる」
2000年代初頭は1試合1億円と言われた巨人戦の放映権料を目当てにパリーグのオーナーもリーグの統合に積極的であり、そのパイを分け合う上では8球団までに減少させることが適正だと主張する経営者もいた。
しかし、球団が合併すれば、その時点で70人ほどの支配下選手がリリースされてしまう。チームが減少するごとに選手たちが仕事場を失うことになるのだ。プロ野球界のパイの縮小によって、やがて野球自体が衰退していくことが予想された。
選手不在の中、1リーグ制に向けて着々と進行する動きに危機感を持った古田敦也選手会長が、ここでリーダーシップを発揮する。
選手会としてNPB(日本プロ野球機構)に説明を求めたのだ。そして「近鉄とオリックスの合併の1年間の凍結、その間に身売り先を探して新規球団を参入させる」との要求を掲げた。
選手の総意をもとにした切実な声であったが、あいかわらず経営者サイドの反応は鈍かった。古田は業を煮やすかたちで「オーナー側と会って話がしたい」と発信。これを伝え聞いた巨人の渡邉恒雄オーナーが「たかが選手が」と発言し、物議を醸しだした。
結果的にこの言葉は選手たちの気持ちに火をつけ、一気に結束が固まった。その後、NPB側と選手会との団体交渉は決裂し、古田は2004年9月18日、19日の2日間にストライキを敢行する。
週末の公式戦が二試合消滅したが、世論もまた選手会を圧倒的に支持。これに押されるかたちで1リーグの動きは封じられていく。そしてついに経営者側は12球団の存続と新規参入チームの参加審査を積極的に行うことを認めたのである。大きな譲歩だった。
最終的に近鉄の合併は承認されたが、新規加盟申請にライブドアと楽天の二つが手をあげ、楽天の参入が認められた。
もしも当初のシナリオ通り球団が減少していたら、紛れもなく今のパリーグ、ひいては現在の日本球界の隆盛はないであろう。選手会労組が動いたことで成し遂げた最も大きな仕事のひとつである。
しかし、ここから先に大きな問題が残った。誰がいったい新規参入の楽天の監督をするのか。このとき、評論家をしていた田尾はこんなふうに思っていた。
「メジャーリーグはチーム数を増やす膨張傾向にあるけど、その場合、新しく出来た球団への最低戦力を保障するエクスパンション・ドラフトをやっている。日本の場合は増えるわけではないけど、楽天は実質、新球団だから、同じようにすべての既存球団が協力すべきじゃないか。
アメリカみたいに各チームが20人くらいの選手をプロテクトし、あとは、自由に指名させるやり方が良い」
ところが、「戦力強化も合併のメリット」と考えるオリックスの主張が通り、新球団の選手の選択については、エクスパンションではなく、分配ドラフトが採用された。
まず近鉄と合併したオリックス側に近鉄の選手を含む25人の選手のプロテクトが認められ、楽天はそこから外れた選手の中から20人を選定し、以降はオリックス、楽天の順番で指名していくというものであった。
既存球団からの供出選手の枠は無く、(近鉄最後の選手会長となった磯部公一はオリックスのプロテクトに入ることを拒否したが)制度的にも戦力均等とはならないドラフトであった。
「楽天は紛れもなく、12球団で最も乏しい戦力になる」
誰もがそう考える中で、田尾は新球団の初代GMマーティ・キーナートから、チーム編成について意見が欲しいと要請を受け、会食の場に出かけて行った。
中日、西武、阪神と渡り歩いた現役選手時代から、誰の顔色も窺わず、歯に衣着せぬ正論を言い続けてきた田尾は、評論家の立場からも一切の忖度なく、新しい球団の在り方、ふさわしい監督像について語った。