幼いころに触れた言葉、目にした風景、過ごした時間……記憶されたそれらがようやく意味を持って立ち上がり始める、その軌跡を丹念に描いた『あのころの僕は』。
幼いころに触れた言葉、目にした風景、過ごした時間……記憶されたそれらがようやく意味を持って立ち上がり始める、その軌跡を丹念に描いた『あのころの僕は』。著者の小池水音さんは、二〇二〇年に新潮新人賞でデビューして以来、同賞の選考委員を務める又吉直樹さんの言葉を創作の支えとしてきたという。このたび二冊目の単行本刊行を記念して、念願の対談が実現した。
構成/長瀬海 撮影/神ノ川智早
派手じゃないシンプルな文章の豊かさ
又吉 小池さんが新潮新人賞を受賞されたときの選考会のことはよくおぼえています。僕にとっては初めての選考の場だったのでめちゃくちゃ準備して臨みました。選考会自体もかなり長い時間かかったんじゃなかったかな。
小池 新潮新人賞史上、最長だったと聞きました。
又吉 ですよね。それくらい議論が白熱したんやと思います。僕はデビュー作「わからないままで」を読んだときから小池さんの文章がとても好きでした。読みやすいんだけど、ただ平易なだけじゃなく、含みがあるというか。文章には、情報がたくさん詰め込まれた濃密なものもあれば、力を抜いて情報を削ぎ落とすようにして書かれたものもあって、小池さんのは後者ですよね。だからこそ読んだあとに余韻が残る。それが気持ちよかったので、僕は受賞作に推しました。
その印象は新作の『あのころの僕は』を読んでも変わりませんでしたね。進化はしてるんやけど、これまで小池さんが書いてきた作品に通底しているものがちゃんとある。今回、小池さんは視点人物を五歳の天 ( てん ) という男の子にしてますけど、小学校に上がる前の子どもが経験したことを一人称で書くのはとても難しいですよね。もちろん語り自体は天が後年、振り返ったときのものなんですが、言葉の不完全さを自覚しながら小池さんが小説を書いているのがよくわかります。頭のなかで考えたことを言葉に落とし込むときに、本来あったはずの情報や意味をいくつか捨てなきゃいけない。その意識で小池さんは書いてるから、こねくり回していないシンプルなものなんだけど、大きな魅力のある文章になっている。それはこれまでの作品でもずっとそうで、他の小説家にはない小池さんの良さなんやなと思いました。
小池 ありがとうございます。新人賞をいただいてから四年が経ち、ぜんぶで四作の小説を発表しました。でも、いまだに自分では自分の文章の魅力がなんなのか正確にはよくわかりません。だからこそ毎回、新しいことに挑戦しなくちゃいけないと思いながら書くうちに、何かが損なわれているんじゃないかという不安に駆られることもあって。だから、そうおっしゃっていただけると嬉しさと安堵の両方が込みあげてきます。
又吉 サッカーでやたらと派手なプレーをしたがる人っているじゃないですか。なんでそこでヒールキックすんねんみたいな人とか、ノールックでパスしようとする人とか。確かに成功すればうまく見えるし、使い方によっては有効なときもあるんですけど、でも失敗することも多い。だったら次の人がプレーしやすいようにインサイドで正確にパスを出した方がいいんですよ。シンプルに見えるけど、一つひとつのパスがちゃんとつながっていくから。
小池さんの文章はまさにそれなんですよね。力が入りすぎてないし一つひとつの速度も考え抜かれているから、前の文章を次の文章がしっかりと受け止められる。その結果、小説全体に調和が生まれていて、読んでいて、あぁ豊かな小説やなって思うんです。
小池 デビュー作の「わからないままで」は、一三〇枚くらいを一年かけてゆっくりと書きました。だからストレスなく自分を見つめられた時間も長かった気がします。とはいえ、時間を置いて読み返すとまだパスが強すぎる部分も見えてくるんですけどね。
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内と外の速度の違い
又吉 今回の作品を書くにあたって、今、書くべきことはこれだなと感じたんですか?
小池 そうですね。デビューしてから年に一作くらいのペースで発表しているのですが、一作目から三作目まではそれぞれ近い問題意識を変奏させながら書いていました。物語の内容はもちろん違うものの、扱っている主題は同じで、それを小説のなかでじっくり考えてみようと思ったんです。決してやりきった感覚があるわけではないのですが、今回は別の物語のエンジンがほしいなと考えて「僕」という一人称の子どもの視点で書いてみました。おそらくそこに自分の求めていた小説の質感があったのではないかと思います。
子どもの視点で書くことが難しいものになることは、書き始める前からなんとなくわかっていました。どうしても大人である自分が子どもを模倣して書くことになるわけですから。ただ、「あのころ」を振り返るという語りで冒頭の場面を書いてすぐに、子どもだからここまで考えられないはずだとか、こんな細かいことは覚えてないのではないかといった留保はしなくてもいいんじゃないかと思うようになりました。記憶は思いがけないかたちで残りつづけるものなんじゃないか、と。
又吉 書いていくうちにそのことを実感したわけですか?
小池 はい。それと、大学生の頃に幼稚園でアルバイトをしていたときの経験も大きかったのだと思います。三年間、子どもたちと一緒に過ごしているうちに、自分自身の幼少期の経験をありありと思い出したことが何度もありました。記憶はすっかり消えてしまわずに、体内にいつまでも残っているものなのだとよくわかった。子どもの脳内に渦巻いている情報量ってすさまじいんですよね。表に出せていないだけで、子どもはたくさんのことを認識したり考えたりしている。それも大人の想像をはるかに超えるかたちで。あのときの経験があったので、手加減して子どもらしく書くよりも遠慮せずに明瞭に語らせた方がより良い方向にいけそうだ、という実感を得ることができたのだと思います。
又吉 その感覚、よくわかります。じつは僕も天と一緒でしゃべるのが苦手な子どもでした。頭のなかで考えていることはたくさんあるんだけど、それを取り出すのがうまくできないというか。僕には姉が二人いるんですが、二人ともおしゃべりが達者やったんですよ。三つ上と四つ上だから、僕は圧倒されてばかりいました。自分もしゃべりたいと思ってイメージを膨らませるんですけど、何をどう話せばいいか、言葉を選んでいるうちに会話がどんどん流れていってしまう。みんなが待っててくれても、なかなか言葉が出てこない。だから家でも保育所でも学校でも自分からはしゃべらん子になってしまったんです。そのせいでおとなしいとか無口とかよく言われてましたね。でもそう言われても、あまりピンとこないんですよ。頭のなかではめちゃくちゃしゃべってるから。
小池 自己像と合わないというか。
又吉 合わないんですよね。自分の内側ではいろいろしゃべってるんやけどなって。家では母親が無理に姉たちを黙らせて、今度は直樹がしゃべる番ねとか言ってくれるんですけど、そうするとまた緊張して話せない。
小池 ボールがまわってくるとドキドキしちゃってうまく蹴れないんですね。
又吉 そう。一人で蹴ってるときはうまくできるのに。でも、それはお笑いにしても小説にしても、自分が今やっていることにとって必要な時間やったんちゃうかなってよく思います。もし自分が他人の会話に入るのがうまかったら、立ち止まってそれについて考えることもなかったでしょうし。天にもあの頃の僕と近いものを感じました。近いというか、ほぼ同質かな。自分が置かれている状況を誰よりもわかってるんやけど、そこで感じたことの意味を確定させるのをすごく恐れている。この小説には彼なりに少しずつやってみようとする速度感がありありと表れているんですが、それこそが正しい時間の流れ方なんやと思います。
物語の中心にはもう一人、天が初恋をするさりかちゃんという女の子がいますよね。彼女はイギリスにずっと住んでたから、帰国して幼稚園に転入したばかりの頃はうまく日本語が話せない。おそらく英語でやったらたくさんしゃべれるんでしょうけど、最初の方はたどたどしい日本語で天たちと会話をしている。そういうテンポ感だから天とも仲良くなれた。でも、そんな彼女も三ヶ月くらい経つとすっかり日本語が達者になるじゃないですか。言葉だけじゃなくて、父親の不在も現実的に処理できるようになってる。さりかちゃんの生きるテンポが一気に速まるから天は戸惑うんですけど、だからって彼女が悪いわけじゃないんですよね。それはそれでポジティヴで素敵なことだし。
小池 天とは境遇が違うんですが、僕も又吉さんと同じく姉がいるのでその戸惑いはよくわかります。幼い頃、姉やその友達がすごい速度で話しているのを聞きながら、会話に入ろうとしてもうまくいかないことがよくありました。自分にも何か差し出せるものがあるんじゃないかと思って言葉にしようとするんですが、姉たちのスピードについていけない。自分のなかで経過している時間と、ほかの世界で進んでいる時間がずれているという感覚があったというか。
考えてみれば、そのことを思い出しながらこの小説を書いていたような気がします。世界と自分との時間のずれはこの小説にとってとても大きな要素だった。じつは前作を発表してから、なかなか新しい小説が書けない時期が続いていたんです。でも、「僕」という一人称と「あのころ」という過去の時制でいこうと決めて冒頭を数行書いたら、不思議としっくりきました。それがなぜなのかはわからなかったのですが、今、又吉さんのお話を伺いながらその理由がわかったような気がします。