「世界と自分のずれを描く」小池水音×又吉直樹『あのころの僕は』刊行記念対談

わからないままでいるための筋力

又吉 必ずしも答えを小説のなかに提示する必要ってないんやと僕は思います。もちろん答えを確定させることの覚悟や潔さも大事やとは思うんですけど、時間が経ったり状況が変わったりすれば答えなんてまた違うものになるじゃないですか。それよりも僕はわからないという状態のまま理解することの方が意味があるんじゃないかと感じるんです。
 わかってない状態で考え抜くっていうのはじつは一番筋力を使うんですよね。だからこそ、なるべくその筋力を使い続けていたいですね。何でも答えを知ってますみたいな人って世の中にたくさんいるじゃないですか。そういう人としゃべってても、あなたはトンネルの途中の非常口から抜け出ただけでしょって思ってしまう。わからないままもっと先に行ける可能性があるのに、なんかもったいないなって。僕が近代文学や純文学と呼ばれる小説を中学時代に読み始めたときも、その感覚が一番好きでしたね。想像力が豊かで、論理的に言葉を尽くして考える力を誰よりも持っている人たちがわからないことに悩んで苦しんでる姿がすごく信頼できたっていうか。
小池 小説は一文字一文字書いていくので、時間がとてもかかるものなんですよね。ある意味で、わからない状態を自分のなかでずっと持続させる装置でもあると思うんです。早急に答えを出すのでもなく、考えることを放り出すわけでもなく、そこにとどまり続ける。小説を書くというのはそういう経験なんだというのは一作目を書き終えたときに感じましたし、今回も書きながらそのことを実感していました。
又吉 『あのころの僕は』の中で、「ゾウのおばあちゃん」って天が呼んでる母方の祖母に「いつかきっと、いろんなことがわかるようになる」と言われますよね。あそこを読んで、めっちゃわかるなぁと思いました。天はそのときは意味を完全に摑みきれてないようなんですが、でも、きっとあの言葉を言ってもらって心強かったはずです。
小池 冒頭にもその言葉を出して、後半でそれがゾウのおばあちゃんの言葉だったことがわかるようにしたのですが、最初に書いたときは自分でもどういう意味を持つ言葉なのかわかっていませんでした。わからないまま、子どもの視点を通して見えてくるものを書き続けていくうちになんとなく理解できたんです。言葉がだんだん意味を持ってきたというのは初めての感触でした。
又吉 それが小池さんの小説の魅力的なところですよね。小池さんが書く文章は意味の広がりがあるんですよ。ディテールはもちろんしっかり書かれているんですけど、言葉を狭いところに閉じ込めていないというか。言葉ってみんなが使うものなので、ある程度、曖昧に設定されているじゃないですか。それなのに僕たちは無理に言葉にいろんなことを委ねるから、本質とずれてしまうんです。でも、小池さんが書く言葉には余白があるから、語義が広がる可能性もある。だからこそ、ほんとうのことへと近づくことができるんだと思います。

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小説に投影される自己

小池 書かれていることは実体験ですかと聞かれることが多いのですが、僕は小説に自分を投影することはそれほど自覚的にやっているつもりはありません。だけど、書いているうちに自分に対して説得力を持ちうるエピソードを出す必要性を感じると、材料として自分の経験したことを使うことはあります。恥ずかしさはあるのですがそれが小説を書く上で有効ならばいいかな、と。
 又吉さんの作品でも、ご自身が経験されたことが出てきますね。例えば『人間』で語り手が子どもの頃に父親から言われた「おまえ、あんま調子に乗んなよ」という一言は、又吉さんご自身にとっても重要なものだったとどこかに書かれていたと思います。
又吉 そうですね。あれは僕の人生を変えた決定的な言葉でしたね。小説ってどんなものでも必ず共感できるところがあるはずなんです。共感ゼロってことはないと思う。小池さんのこの小説だって、僕は天と年齢も置かれている境遇も全く違うのに彼に共感しながら読みました。自分の幼い頃の記憶と天が経験することは重なる部分が多くて、天の気持ちが手に取るようにわかった感じがしたんです。
 そのように誰かが書いた本に共感してきたのに、自分が書いた作品に限って共感できる部分がないということはあり得ないんです。本質も面白さも手放して、自分が共感できない作品を書くということだけを意識すれば可能かもしれないですけど、そうしたいと思えないんです。ただ、僕の場合は芸人だからなのか、読者に僕自身の話として読まれてしまうことも多い。何を書いても僕として読まれるなら、そのことにいちいちストレスを感じてても仕方ないと考えるようにしてます。
小池 結果に作用しないわけですからね。
又吉 そう。必ず自分のことだって受け取られるわけだから。もちろんそうやって読むことは悪いことやないと思います。むしろそれが人間の性なんじゃないかなとも感じます。だったらそれすら活かして書くことも大事なのではと最近では考えるようになりました。だから『人間』では語り手に自分を投影させた上で、途中でもっと僕に似た人物を出してみたんです。どうせ僕自身の話として読まれることがあるならそれを逆手に使ってみようって。
小池 僕も最初の小説では自分の経験したことのパーセンテージが割と高いものを書きました。ただ僕の場合は、なるべく自分から遠いものを書きたいという気持ちもあるんですが、書いているうちに自分の持っている素材がゴロッと出ちゃうんです。
又吉 その感じもよくわかります。僕は小説以外にコントも書くんですが、けっこうぶっ飛んだ設定にするんですよ。僕がバケモノの格好をしてて、相方がその面倒を見ている男爵みたいなやつ。もう完全にフィクションの世界なので、さすがに「あれはお前自身の話だよね」って言われることはありません。でも、僕自身は意外と自分の実感に近いことを書いているつもりなんですよ。僕からしたら小説もコントも自分との距離感は一緒なんです。
 文学の世界では、それが私小説であるのか、ないのかがずっと重要視されてますよね。だから小説で自分に近いことを書くと、作者本人の話として受け取られる。コントを書いても自分自身の話とは受け取られないのに。あれってなんなんですかね。作者の話として読むことってそんなに大事なんかなって思いますね。ここには又吉自身のことが書かれているとか言われても、何も言ってないに等しいんじゃないかなという気がしてしまいます。