「世界と自分のずれを描く」小池水音×又吉直樹『あのころの僕は』刊行記念対談

文章に滲む人間の悪意

小池 僕は又吉さんの小説が読者の心の深いところを動かす理由の一つに、登場人物の言葉が聖母のような温かさで他者を許容するときもあれば、ナイフのように鋭敏な批評を誰かに向けることもある、それらのどちらに転ぶかわからない人間の一瞬一瞬の模様にあるんじゃないかと思います。例えば、『文學界』で連載されている「生きとるわ」でも相手を傷つける言葉を思考する場面がありました。読みながら、そっちに考えが広がっていかないでくれと思わされたのですが、そうやって読者がつい緊張する瞬間があちこちにあるんです。一人ひとりの人生という物語のなかに、さらに泡のように細かい一瞬の物語というものがある。そしてその細かな物語は、陰謀論のような大きな物語とどこかでリンクしている。そのことを又吉さんは鋭敏に描いてきたのではないかと思うんです。
又吉 めちゃくちゃ面白いご指摘だと思います。ただ、僕としてはじつは笑ってほしいだけだったりするんですよ。こいつそっちに転ぶんか、やばいなって(笑)。かといって別にふざけてるわけじゃないんです。っていうのも僕自身がそっちに行くこともあるので。自分がそうなるときは俯瞰で見るようにはしてるんですが。
 僕は小池さんの作品を読んで反対のことを感じました。小池さんの描くものには哀愁とか寂しさは表れてるんですけど、人間の悪意みたいなものがない。そこがすごい。
小池 ほんとですか?
又吉 普通、人間ってポジティヴな言葉よりもネガティヴな言葉の方が刺さりやすいから、そっちをうまく使おうとするじゃないですか。例えば、何食ってもまずいって言ってる評論家がたまにうまいって言うと、おおーってなるみたいな。
小池 落差をあえて作るわけですね。
又吉 でも、まずいってことはないやろと僕は思う。おいしいと紹介されてるような飲食店でまずいと感じたら、まず自分の味覚を疑った方がいい(笑)。本も一緒で何十年も好きで読んできた人なら数行読んだら自分に合わないってわかるやろうに、文句言うために最後まで読んでますやん。好きより嫌いの方が信用されやすく、その方が需要もある。だからそういう悪意を利用したサービスも多いんですが、小池さんの小説はそこに加担しないのがいいですね。
小池 ありがとうございます。よく悪意をもっと書いた方がいいって言われるんですが。
又吉 そっちの方が簡単なんですよ。僕なんか悪意だけ書いとけって言われたらやりやすいなと思う。そうじゃない書き方で面白く書けるから、小池さんの小説は素晴らしいんだと思います。そういう悪意みたいなのは書きたくならないってことですよね?
小池 できれば(笑)。
又吉 すごいわ。ほんと、すごい。
小池 でも、書かなきゃいけないんじゃないかって気もしてます。
又吉 どうなんですかね。人によって考え方は違うと思うんですが、書く必然性が出たときに書けばいいんじゃないですかね。小池さんの小説を読んで「もっと人間の醜悪な部分を書け」って言うのはスイーツ食べに行って、なんでスパイシーなもんがないねんって怒ってるようなもんでしょ。
小池 お店が違う(笑)。
又吉 そうそう。だって人間を書きながら悪意が全く滲み出ないって、普通はできないですよ。僕なんか「生きとるわ」を書きながら嫌になりましたもん。めっちゃ性格悪いな、自分って。そもそも文章の方が意地悪な部分って出やすいですよね。僕、ラジオやテレビでコメントしてるときに悪口言う気は一切起こらないですから。
小池 文章の方が自分自身の心の深い部分が出やすいということでしょうか。
又吉 そうですね。もちろんサービス精神で書くこともありますけど、無意識というか、書いてるうちに悪意がダダ漏れになることの方が多いですね。だから小池さんのその意識は特別なものだと思います。そのうちどこかで自然と爆発するときもあるだろうし、そうなったらそうなったで面白いですしね。そのときの悪意の表現は痛みをちゃんと理解した上でのものになるだろうし。誰かに悪意を表現しろって言われてやっても、小池さんが本来持ってる良さが失われるだけというか。自然なビブラートが出せなくなるんじゃないかな。だったら、自分の書きたいように書いた方がいいと思いますね。
小池 自然なビブラートというのは、とても嬉しい言葉です。今日はありがたいアドバイスをたくさんいただいた気がします。これからも自分の書きたいものを手放さず書き続けていきたいと思います。ありがとうございました。

(2024.9.23 神保町にて)

「すばる」2024年12月号転載