矢野まきの歌は生きている。これは彼女の歌声を初めてに耳にした25年前から、彼女の歌声に触れるたびに抱いてきた感情だ。それと同時に、ある感覚も与えられてきた。それは感触とも似た心に直接訴えかけてくるもので、言葉で言うなら「琴線に触れる」という表現が極めて近いが、それとも一寸違う特殊なものでなかなか表現しがたい。

この地球上に歌い手は五万といるし、記録的なセールスを叩き出すアーティストも数多く存在するけれど、この言葉にできない感覚を聴く者に与える能力はそうそう得られるものではない。だが、矢野まきのライブでは必然のごとく毎回もたらされるのである。ここではその類い稀な感覚を5年ぶりにしかと味わったスペシャルな一夜についてレポートする。

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矢野まきのデビュー25周年記念ライブ<矢野まき 25th Anniversary Live Special「ARIGATO!ARIGATO!」>が10月19日、日本橋三井ホールで開催された。本公演はデビュー記念日である“七色の日”(7月16日)迎える直前に行われた<金沢編>(7月、石川・もっきりや)を皮切りに、9月の<京都編>(登録有形文化財である紫明会館)を経てのシリーズ完結編である。東京でのワンマンライブは20周年ライブ以来5年ぶりということもあり、会場は彼女の歌を待ち望む人々で満員となった。

幕が上がり、静寂を解いたのはベッド・ミドラーの名曲「The Rose」だ。黒い衣装をまとった矢野が赤いライトに照らされ、ピアノを伴奏に歌い上げる。冒頭から極上のアンサンブルを聴かせ、「君の為に出来る事」へと繋がれた。ギターのアルペジオが歌と寄り添いながら物語を紡ぎ、あたたかな空気がふわりと広がっていく。まだ2曲目にもかかわらず、客席からは早くもすすり泣く声がこえてきた。



「皆さん、こんばんは。ようこそお越しくださいました。 本日は一夜限りのライブということで、特別なライブを届けたいと思っています。こんな素敵な会場で、こんなに大勢の人が来てくれて夢のようです」と、矢野は感謝の言葉を述べてから、自分の歌を待っていてくれている人の想いや、この記念すべき周年の意味を改めて感じていることに触れ、「とにかく楽しく。この瞬間を楽しんでいってください」と笑顔を見せた。その後も穏やかなトークが続き、「お家っぽくしようと絨毯を敷いてみました。見えます?」と客席に問いかける場面も。変わらぬ矢野まき節が一気に会場を和ませ、場内はやさしい雰囲気へと変わっていった。

「じゃあ、歌うね」と言い、椅子に腰かけると、静かに「のろいのように」が始まった。タイトルにある“呪い”という言葉から連想するダークさとは裏腹に、ポップなメロディーが印象的だ。孤独な女心を描いた詞を歌い終えると、再び静寂が訪れる。暗闇にミラーボールから放たれる月明かりのような光の下で奏されたのは「青空に浮かぶは白い月」だ。3分ほどの短い曲だが、絵本のページをめくるように情景を想起させる矢野の豊かな歌唱力が際立つ。続いた「大人と子供」も同様に、その確固たる世界観が歌声で瞬く間に創り上げられる様は実に鮮やかだった。



かつて矢野は、2000年代に<宇宙へ、宇宙より>というアコースティック・ツアーシリーズを展開しており、当時からアコースティックでの表現とその親和性には定評があった。バンド編成ももちろん魅力的だが、歌声と楽器の音がクリアに響くアコースティック編成は矢野まきの世界観を映し出すのにうってつけで、楽曲誕生から20年以上の時を経て、円熟味を増し、磨きがかかったその表現力が今まさに見所であり、見せ所でもあるように映った。

ここで、サポートメンバーの3人、ピアノ・オルガンの浦清英、ギター・ゴムベース・ギタレレの中村修司、ギターでありプロデューサーの松岡モトキが紹介された。話題は彼らも制作に参加した矢野のニューアルバム『愛のしかた』へと移り、前回の20周年ライブから今作の制作に至るまでの経緯について語られた。



松岡モトキ(G)

2020年1月21日に開催した20周年ライブ直後にコロナ禍となり、「5年、時が止まったような気持ちでいた」という矢野は、その5年の月日に「いろんなことを考え、愛についても考えた」という。10月2日にリリースしたアルバム『愛のしかた』は今年5月にレコーディングが開始されたが、実際の準備はそれよりも前からスタートしており、「形にしたい。今、歌いたい」と思ったものが今作となり、収録されたと伝えた。さらにタイトルについても「“愛し方”ではなく、“の”を入れることで、愛の対象が広がる。男女だけではなく、物でも場所でも、愛の対象は人の数だけある」と説明し、「いろんなことに愛を向けることで、愛について、今一度振り返るきっかけになれば」と心境を語った。

また、ピアノの浦とは初共演であることを明かし、一発録りのレコーディングでは互いに呼吸を理解していないとできないと前置きした上で「浦さんは私の歌、呼吸を感じてくれて。勘がいい人でないとできないので、すごく嬉しかった」と振り返った。それに対し、浦も「この国に、こんなに歌がうまい方がいらした。心の底から感動しました」と絶賛で応え、矢野は「デビューから正直な歌を、心の歌をという気持ちは変わらずきたので何よりのご褒美です」と微笑んだ。



浦清英(Pf)

一方、亀田誠治プロデュース時代から共にしてきた中村は、「久しぶりの矢野まきワールド。深いところ、他のアーティストでは味わったことのないところへ連れて行かれる」と矢野の音楽を形容した上で、「この音楽の核を持っている人にずっと関わりたいし、 この人の音楽を発信していきたい」とコメント。矢野がミュージシャンズ・ミュージシャンであることが語られた貴重な場面となった。



中村修司(G)

一呼吸置いて、松岡のアルペジオで始まったのは「私の真ん中」。公私ともにパートナーであるふたりの息がぴったりと合った演奏に、観客はうっとりと聴き入っている。続く「夢でいいから」「夜曲」もしっとり聴かせ、魅了した。これらの曲に限らずだが、サポートメンバーそれぞれが矢野の歌を最大限に響かせるための旋律をとても大切に紡いでいるのが伝わってくる。前述の浦、中村の言葉からも彼らのプロフェッショナルな在り方は窺い知れるが、矢野の歌を全力で支え、最高の状態で届ける相性抜群の巧みなプレイにはいたく感服した。ギター2本とピアノという、これまでにない編成やアレンジも新鮮で良かった。

ここで矢野が、「25周年もこの人の力を借ります」と呼び込み、この日のスペシャルゲストであるスキマスイッチの大橋卓也が登場した。矢野の15周年、20周年のライブにもゲスト出演してきた大橋を「数少ない音楽友達」と紹介した矢野に、開口一番「25周年おめでとうございます」と祝福。「知り合う前からリスナーとして、ファンとして聴いていた。あるところで出会って、一緒に歌わせてもらう機会もあった。そんなこんなしてたら、まきちゃんが歌わなくなったから、せっかくだから歌おうよって。もっともっと歌ってほしい」と、本公演の開催にも背中を押したことが語られた。



矢野まき、大橋卓弥(スキマスイッチ)

そんな大橋を交えて届けられたのは、アルバムに先駆けてデビュー記念日に配信リリースされた「ただの私」だ。大橋がコーラスで参加しているこの曲では楽しげな音のキャッチボールが続き、ふたりのハーモニーと観客のクラップが合わさって会場全体が一体になる。続いて、大橋からのリクエスト曲「大きな翼」がふたりで歌い分けるという斬新な形で披露された。歌い終えるとすぐに、大橋が「すごいね、この曲。まきちゃんの曲の中でもボトムがギュッとしっかりしてて男っぽい。こんな歌から子守歌みたいな歌まで歌えて、本当にすごいと思います」と賛辞を贈った。それに対して矢野は「私は息をしてるように歌ってるだけ」と清々しい笑顔でさらりと応えた。そして勢いはそのまま、ふたりの共作曲「ポートレイト」へとなだれ込み、盛り上がりは最高潮に。美しく重なり合うふたりの歌声が特別な夜を大いに盛り上げた。



矢野まき、大橋卓弥(スキマスイッチ)

ステージを後にした大橋を「最高の友です」と讃えて、ライブは後半へ。リラックスした表情の矢野からは、季節の変わり目や旬のもの、とりわけサンマの話が飛び出す一幕もあり、アットホームなトークタイムとなった。「ほぐれたところで歌います」と言うと、さっきまでのほっこりトークから一瞬で空気をガラリと変え、ゴキゲンな音の粒で客席を揺らす「蜜」を投下。厚みのあるジャジーなアレンジの音の中を、太い歌声が編むようにどんどん進んでゆく。本当に3人なのかステージを確認してしまうほど、聴き応えのあるパフォーマンスに驚かされた。続いて、オルガンとアコギ2本で「オネスティ」を披露。シェイカーを振り、風刺の効いた詞を軽やかに歌う矢野の姿を前に、リリース当時は頻繁に演奏されていたがもう20年は聴いていないような…と思っていたところ、後に久しぶりに演奏したことが告げられた。

「いろんなプロデューサー、ミュージシャンと作品を作ってきましたね。ライブ感を出してレコーディングするのをずっと大切にしています」と、話題は再び制作にまつわるものとなり、今回のリリースについて「7、8年ぶりでね。早く歌を聴いてほしいと、最初は家で録ろうかって言ってたくらい」と松岡が話すと、「宅録もいつかやりたい」と矢野が返し、ふたりが本当に家にいるかのような夫婦の会話も展開された。「面白いことができたらいいなと。多くの人に届いてほしいなと願ってます」と松岡が結んでから、「太陽」が届けられた。木漏れ日のようなオレンジ色のライトに包まれて吹き鳴らす矢野のブルースハープが冴え渡り、ピアノの新しい風がこれまでのアコースティック・アレンジを一新していた。



「すごく今、幸せ。ありがとう。『私の真ん中』でも書いているけど…人生にも刹那を知ると急にどうしようとか不安になるけど、みんなに平等に起きることだから、一瞬一瞬を愛しく、なるべく噛みしめるようにいたいよね。私は全然できてないから…」と語りかけてから、「心のお土産を持って帰ってもらおうと思って全力で歌を届けましたが、届きましたでしょうか? 次が最後です。この曲も思い出深い、大切な曲でもあります」と伝え、「タイムカプセルの丘」を披露。愛の歌を情感たっぷりに歌い上げた矢野に、観客からは惜しみない拍手が贈られた。



アンコールに応えて再び登場した矢野は、「みんな大好き。優しいね。ありがとう。どうかみんな無事に帰って、また元気な顔を見せてください」と挨拶し、「メッセージ」をパフォーマンス。ピアノを伴ってドラマティックに、オーディエンスに語りかけるように歌い、全観客にその思いを丁寧に届けた。
最後は大橋も再登場し、万雷の拍手に包まれる中、矢野は「また必ず会いましょう。いつも祈ってます」と涙声で語り、歌い手・矢野まきの25年分の思いを込めた一夜限りのスペシャルライブは大盛況で幕を閉じた。



文◎早乙女 ‘dorami’ ゆうこ
写真◎青木こず恵

<矢野まき 25th Anniversary LIVE Special「ARIGATO! ARIGATO!」>Setlist

1.The Rose
2.君の為に出来る事
3.のろいのように
4.青空に浮かぶは白い月
5.大人と子供
6.私の真ん中
7.夢でいいから
8.夜曲
9.ただの私 with 大橋卓弥
10.大きな翼 with 大橋卓弥
11.ポートレイト with 大橋卓弥
12.蜜
13.オネスティ
14.太陽
15.タイムカプセルの丘
En.メッセージ

矢野まきアルバム『愛のしかた』

2024年10月2日発売
POCS-25145 2,200円(税込)
1.ただの私
2.私の真ん中
3.ロールキャベツ
4.愛が欲しいんだよ
5.おうちへ帰ろう
6.夢でいいから
◆矢野まき アルバム『愛のしかた』YouTube

Digital Single 「ただの私」

2024年7月16日日発売
https://umj.lnk.to/Yq91A0

◆矢野まきオフィシャルサイト