毎月約500万円の赤字経営を、「鉄製フライパン」で起死回生させた町工場があります。大阪府八尾市にある、1951年創業の藤田金属株式会社です。
もともとアルミ製調理器具を中心に製造していた同社。廃業寸前だった2010年、あることを機に鉄製フライパンの製造を始めます。2019年に発売した、取っ手が着脱できる鉄製フライパン「JIU(ジュウ)」は5年で8万枚以上を売り上げ、2023年度はJIUを含む鉄製フライパンが約23万枚売れました。
現在40種類以上ある同社の鉄製フライパンを開発したのは、4代目社長の藤田盛一郎さんです。藤田さんに、再起への道のりを伺いました。
2010年まで、アルミ製キッチン用品の製造が9割だった
——御社の鉄製フライパンには、どんな特徴があるのですか?
一般的な鉄製フライパンのイメージは、「重くて焦げやすい」。
しかも、鉄が錆びないように「クリアー塗装」という錆止め加工がしてあるので、使用前に「空焼き(食材を入れず油だけ熱すること)」をして塗装を剥がし、フライパンに油を馴染ませる必要があります。
当社の鉄製フライパンは特殊な製造法のため軽く、「ハードテンパー加工」で予め油慣らしがしてあるので、届いてすぐ使えるのです。
ハードテンパー加工は藤田金属独自の技術。現時点で他社では用いられていない
——なぜハードテンパー加工は、他社で用いられていないのでしょう。
フライパンを700℃の高温で一枚ずつ焼くので手間がかかりますし、鉄製フライパン自体の流通量が少ないのもあると思います。
フライパンの流通量は、年間約3,000万枚。鉄製フライパンは、そのうち約5%(約150万枚)なんですよ。約150万枚のうち約23万枚(2023年度)が当社だと考えると、鉄製フライパンをつくる工場は限られているんですよね。
当社も、2010年までは、アルミキッチン用品の製造が9割を占めていました。
——御社で鉄製フライパンが生まれるまでの経緯を教えてください。藤田さんは2003年に新卒で入社したそうですが、なぜ、この職に就いたのですか?
創業者である祖父に「将来は社長になるんだぞ」と言われて育ったので、そういうものだと思っていました。強いて言うならアイドル事務所に入る夢もありましたが、家業なので、違和感も葛藤もなく入社しましたね。
ところが入社後、「なんて業界に来たんだ」と思いました。
ぼくは、学生時代にガソリンスタンドのバイトで洗車やタイヤをするのが得意だったのもあり、営業兼企画を担当していました。
当時はデフレの時代。当社の主な営業先はホームセンターで、そこでは一番安いアルミ製フライパンが小売価格198円で売られていました。品質よりも安さが求められ、うちのような小さな工場は、どの営業先でも「仕方なく買ってやる」という態度を示されて、しんどかったですね。
創業者は祖父、2代目が叔父、3代目が父、4代目が藤田さんと、家族代々で営んできた。藤田さんの2人の弟も藤田金属ではたらく
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企画した商品の大半は失敗作だった
——鉄製フライパンをつくったのは、何がきっかけだったのでしょう。
リーマンショック前後の2007、8年から経営が厳しくなり、2010年には毎月約500万円の赤字が出ていました。借金で補填していたものの、どの銀行からも新たな借入は断られる状態でした。
「なんとかしないと」と思いながらも先行きが見えず、目の前の仕事をこなすしかなかったですね。
後に3代目になる父が、苦渋の決断で2人の従業員にリストラを告げ、それを翌朝の朝礼で皆に伝えました。その時の辛さは、一生忘れません。
同じころ、大阪のある会社から「20cmの鉄製フライパン」の製造依頼があったんです。聞くと、もともと鉄製フライパンを注文していた新潟の工場が製造を停止したと。代わりの工場を探していたところ、当社に行き着いたそうです。
当社は、50年ほど前にも鉄製フライパンを製造していました。フッ素樹脂加工の普及とともに廃盤になりましたが、製造環境が整っていたこと、「経営はしんどくても、お客さまの要望に応えたい」という思いから、「なんとかやりましょう」と伝えたんです。
価格以上の品質の良さに喜ばれ、「次は26cmをお願いします」と追加依頼があった。これを機に、鉄製フライパンの種類を増やしていったんです。
2024年7月にオープンした東京直営店「FUJITA KINZOKU Tokyo」。40種類以上の鉄製フライパンが展示・販売されている
——鉄製フライパンの種類を増やしたことで、売上が回復していったのですか?
いえ、同時期にいくつも、ほかの商品を企画・開発しました。
2011年にぼくが企画し、父と相談しながら開発した1,480円〜1,980円のアルミ製タンブラー「ひえ〜るタンブラー」は、1年で4〜5万個が売れたんです。ただ、これは数少ない成功例で、企画した商品の大半は失敗作でした。
たとえば、中国の提携工場で生産した一人用ケトルは、4,000個製造したものの半数しか売れず……。性格上、失敗はすぐに忘れるんですが、この一人用ケトルは、今も工場に約2,000個在庫があるので覚えています。
今はこうして当時を振り返れるくらい気持ちに余裕が出てきましたが、当時は毎日必死で、売れたことを喜んだり、失敗に落ち込んだりする余裕もなかったですね。