教師の経験から学んだ、“居場所”“繋がり”を作ることの重要さ
嘉悦大学の合宿では、みんなで夏野菜を収穫しカレーを作って食べたことが良い思い出に
小林さんのお話を聞いていると、“繋がり”や“場”というワードが頻繁に出てくる。それは小林さんが教師という職を選び、これまでさまざまな教え・学びの場で経験してきたことによって培われてきた思いからだ。喘息の持病があり身体が弱かった小林さんは子どもの頃、鹿児島の祖母の家に預けられていた時期があるという。祖母の家で二人暮らしをしながら、友達と川で遊んだり、稲刈りの手伝いをしたり、1年ほどの田舎暮らしをするとすっかり元気になったのだそうだ。祖母の家では一人っ子状態で、何をしても許され、少しでも体調が悪いと、みんなで心配してくれる。そんな自分の“居場所”があったことが良かったのでないかと小林さんは語る。
「元気になって戻った東京で、中学・高校とバレーボールの部活に入った。母ひとりに育ててもらった中で、監督が父親代わりじゃないですが、すごくお世話になりました。そこで、自分も教員になって自分のような子どもがいても、居場所をつくってやれるような、そんな教師になりたいと思ったんです」
学校を出て3年間は保育園の体育の教師、その後中学に行って適応指導員になった。想像を絶するほどの荒れた中学校で不登校も多く、やっと登校できたとしても教室に入れない子どもたちと雪合戦をしたり、保健室ならぬ理科室で一緒に給食を食べたりしたという。その前までの保育園と中学校とのギャップに驚き、その間の小学校では、いったい何が起こっているのか。それを知りたくて小学校の免許を取って小学校に赴任した。
「学校では、だいたい先生は各教科1人、担任も1人です。子どもたちは先生を選ぶことはできません。でも、子どもたちにはいろいろな先生から学んでほしいと思いました。たとえ私が、一生懸命授業の準備をしても1人か2人ぐらいの子にしか刺さらないことが多かった。自分ひとりではだめなんです。そこでゲストティーチャーとして、地域の人などを呼んで話をしてもらったり、特別支援学級の担任もしていたので、その子たちを呼んでいろいろな児童がいることを知ってもらったりしました。クラスで孤立している子、障がいがあって普通学級に行くことのできない子は、繋がりを失っています。まず地域や、学校の他の子どもたちと繋がることが大事だと思ったんです」
そんな経験を経て大島の小学校に赴任した小林さんは、前述のように大島を盛り上げる仕事に出会い、現在は教員をやめ、スポーツなど様々な取り組みで島の人々同士、島と島外の人を繫ぐ仕事ができるようにしている。嘉悦大学の合宿をきっかけに始めた合宿コーディネーターという仕事に関しては、スポーツに限らず塾や学校の移動教室などの依頼が飛び込んでいるという。大島の祭りを体験したい、釣りをしたい、魚をさばきたいといった幅広い要望があるが、島にはそれぞれのプロフェッショナルがいるので、そこでも小林さんは“繫ぐ”役目を果たしている。
「最近よくウェルビーイングという言葉が言われますが、自分が楽しいと思う時間というのはとても大事ですよね。スポーツをする人は競技の中で喜怒哀楽を経験しているので、こういう島に来ると癒やされたいと思うようなんです。一方、塾の合宿で来た子たちは、いつもひとりで頑張っているので、みんなで踊りたいとかキャンプファイヤーをしたいと言います。いろいろな人を繫ぐことで、みんなのコミュニティが広がり、ウェルビーイングが高まるといいなと思っています」
小林さんは、大島に移住して、いろいろなプロフェッショナルがいることに驚いたそうだ。釣りの名人や名産のくさや作りをしている人など、“オンリーワン”の仕事をしている人が多いという。本人は当たり前だと思っているが、島外から来た人からすると稀有なスキルをもった“スゴい人”だ。そういう人との繋がりができた人は、必ずリピーターになって再び島を訪れるのだそう。筆者も是非とも訪れてみたくなった。
text by Reiko Sadaie(Parasapo Lab)
画像・写真提供:てらすワークショップ