相続税の落とし穴
大正生まれの父は「男子厨房に入らず」を絵に描いたような人だった。
料理も洗濯も家事は何一つできない。つまり母がいなければ一日も暮らせない生き方をしていたのだ。
本人は母の死後「大丈夫だ、一人でやっていける」と言い張っていたが、できるはずがないことは明白だった。
父の子供は私と弟だけなので、どちらかが同居するしかないと考えて相談を切り出したところ、弟の家は狭くて父の部屋を確保できないという。
一方、トカイナカの私の家は8部屋あることから、父は我が家で引き取ることになった。
ただ、それまで両親が暮らしていた新宿区高田馬場のマンションは売却していなかった。父が、いつかは戻って一人暮らしをすると言って、聞かなかったからだ。
父は戦後、毎日新聞で記者として勤めあげたあと、大学で教員職に就いていたので、年金も受給していたし、資産も十分にあった。
だから我が家で父にかかる生活費を請求してもよかったのだが、何のルールも決めずに共同生活を始めてしまい、結果として父が契約するインターネットの通信費や新聞代などの諸経費は私が払い続けた。
そのあとに始まった介護生活に必要な費用も私が負担した。
あとになって私は、父にかかる費用は父に払わせるべきだった、介護費用にしても、私が立て替えた経費についてはきちんと記録しておき、定期的に請求するべきだったと猛省した。特に、父が介護施設に入所したあと、父の普段使いの銀行口座が底をついたため、施設に支払う費用も含めて、父にかかわる費用はすべて我が家が負担した。
ここまでのところを読んで「ケチなことを言うな」「親孝行の一環じゃないか」などと思う人がいるかもしれない。
しかし、最終的に我が家が負担した費用は、おそらく数千万円に達している。父にかかる費用を父の資産から支払わせていたら、父の資産は減り、おそらく相続税を払わずに済んだと思う。
ここに相続税の落とし穴があったのだと私が気づいたのは、父の死後、資産整理を始めてからのことだった。
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国の構造改革に苦しんで
遺産整理に関わる大切なことを伝えるために、相続地獄に続く我が家の金銭事情についても詳細に記しておく必要があるだろう。
一緒に暮らし始めてからも、父はしょっちゅう高田馬場のマンションへ帰っていた。実家で酔いつぶれるまで飲んで、トカイナカの我が家へ戻ってこないこともあった。一緒に食事をしていたという友人が、酔いつぶれた父を所沢まで車で送り届けてくれることも珍しくなかった。
だから暮らし始めて6年目のある日、警察から「お父さんが道端で倒れました」と連絡が入った時も、私は「どうせ酔いつぶれたのだろう」と最初は楽観視していたのだ。しかしそれは、とんだ見当違いだった。
父は高田馬場の実家から目白へ買い物に行き、バスで帰ろうと並んでいたバス停で突然クラッときて、その場に倒れ込んだのだという。
たまたま隣にいた人が救急車を呼んでくれて、病院へ搬送されていたのだ。あわてて妻と病院へ行った時には、意識はあったものの、脳出血を起こして、動けない状態だった。
医師からは「出血が脳の右半分で起きたため、思考能力や言語に支障はない。ただし左半身は麻痺します。リハビリをしてもこれまでの生活に戻るのは難しいでしょう」と通告された。
しかし手をこまねいている場合ではないので、総合病院での治療を終えると、所沢の国立リハビリテーションセンターへ移り、リハビリを開始した。すると思いのほかリハビリ効果が現れ、半年ほど経過した頃にはゆっくりとなら歩けるようになった。「もしかすると元の生活に戻れるかもしれない」という希望が見え始めたのだ。
ところがそんな矢先に、主治医から退院を言い渡されてしまう。
私は「せっかくここまで回復して、あと一歩というとこまできたのだから、もう少しリハビリを続けさせてほしい」と懇願したがダメだった。
小泉純一郎政権の構造改革によって、「慢性病患者の入院日数は6カ月まで」というルールに改定されたからだという。
この容赦のない構造改革によって、どれだけの人が大きな苦しみを抱えることになったか計り知れない。
父のようにリハビリを中断せざるを得なくなった当事者も哀れだが、家で介助に追われるようになった家族の負担は、肉体的にも精神的にも、そして経済的にも一気に拡大したのだ。
父の場合、介護施設に入るという手もあったのだが、本人が拒絶した。当時、周囲の人に「父は思考能力はしっかりしている」と話すと「よかったね」と言われることが多かったのだが、それはそれで厄介だった。半身不随になった父は一人では何もできないのに口だけは達者で、そのうえ頑固。文句は一流だったのだから。
その時点で父は「要介護4」に認定されていたのだが、「要介護3」が食事や入浴、トイレの際に介護士やヘルパー、あるいは家族の手を借りなければいけないというレベル(現在の私が要介護3)だ。
これが「要介護4」になると、家族が自宅で介護するのは不可能だというレベルなのだ。しかし妻は父が自宅介護を望むのならと腹をくくってくれた。
この時期に妻にかけた多大な労力と精神的な負担に関しては、またの機会にするとして父の自宅介護は1年3カ月に及んだ。
写真/shutterstock