がんで闘病中の経済アナリストの森永卓郎氏(67)が自身の終活について記した書籍『身辺整理』。本記事では書籍より一部抜粋・再構成し、森永氏の父が他界した際に経験した、地獄のような遺産相続の経験についてお届けする。隠し子の把握のために戸籍謄本が必要? 経験した人にしかわからない遺産相続のしんどさを解説する。
資産整理の期限は10カ月しかない
2011年に起きた東日本大震災の直後に父は他界し、同時にそこから10カ月にわたって続く相続地獄が幕を開けた。
遺産分割協議や相続税の申告は、故人の死亡届けを提出してから10カ月以内に完了しなければいけないと法律で定められている。
1年近くも猶予があるのかと思ってしまいがちだが、10カ月はあっという間に過ぎていく。なにしろ、膨大な手続きが必要なうえに、一つひとつに信じられないほど時間がかかる。
しかも並行して行うことができず、一つクリアしたら、それを持って役所へいって手続きを進めるという具合で牛歩も甚だしいのだ。
ただ私は当初から期限を強く意識していた。
申告期間の10カ月を超過すると、脱税で立件されるケースがある。経済アナリストという肩書で仕事をしている立場上、脱税で捕まるなどという失態は許されない。そんなことになればお金のスペシャリストとして呼ばれるテレビやラジオの出演や講演、経済学部の教員の仕事は奪われてしまうかもしれない。私はあせっていた。
ちなみに私は節税しようとは、はなから考えていなかった。親から相続するお金は、いわばあぶく銭だと考えていたからだ。
余談になるが、結果的に私は父から相続した資産を弟と折半した。
父の介護にかかった金は差し引いたうえでの折半を求めることもできたが、あえてそうはしなかった。
領収書をとっていなかったので、証拠がないし、天から降って来たようなお金に執着して骨肉の争いと化した挙句、ストレスを募らせるようなことになるのは不毛だと考えたのだ。
祖母の介護を巡り姉妹の関係性が崩れたことに心を痛めていた母が、身をもって伝えてくれた教訓だったのかもしれない。
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私が犯した最大の失態
相続地獄の話に戻ろう。
父は「預金や株式はあちこちにある」と言っていたので、私は父の資産をあぶり出すことから始めたのだが、初めの一歩で激しく出鼻をくじかれた。
まず出向いたのは父のメインバンクだ。父は銀行から貸金庫を借りていて、私も金庫の鍵を開けられるように手続きをしてくれていた。だから、金庫を開ければ通帳など、父の資産に関するものがすべてあると思い込んでいたのだ。
ところが金庫の中に入っていたのは、大学の卒業証書や思い出の写真といった資産とは無関係のものばかりで、唯一金目のものといえば、現在でも100円ほどの価値しかない第一回東京オリンピックの100円銀貨だけだった。
貸金庫事件のあと、私は高田馬場の実家にこもって、リビングに山積みになっていた郵送物の中から金融機関からのものを探し出す作業に取り組んだ。
父が脳出血になって以来、私が実家に定期的に行ってポストの中の郵送物を取り出すようになった。そうしないとポストが溢れ、空き巣の標的にされかねないからだ。
リビングに積まれていたのは、私がポストから取り出して投げ入れた郵送物の山だった。溜まった郵送物を一つひとつチェックしていくのは、気の遠くなるような作業だった。
こうして父の口座がある可能性のある金融機関を絞り込み、銀行や証券会社などに連絡をして父の口座はないかと問い合わせていったのだが、ここからいよいよ本格的な相続地獄へと突入していく。
情報開示のためには、所定の手続き書類の提出に加えて、相続人全員の合意書と、父が生まれてから死ぬまでに戸籍を置いたすべての市役所の戸籍謄本が必要なのだ。なぜすべての戸籍謄本が必要なのかといえば、隠し子の存在を把握するためだという。「親父に限って隠し子なんてありえない」と言ったところで通用しない。
しかし自分が生まれる前に親がどこに住んでいて、あるいは小さな頃にどこからどこへ移り住んでいたかをきちんと把握している人がどれほどいるだろうか。
父は佐賀県の出身だったのだが、私が佐賀の役所に出向くのは難しいし、旅費もかかる。そこで父が過去に戸籍を置いていた自治体に電話をかけた。
すると「郵便小為替と返信用封筒を同封して、役所に申請書を提出してください」と言う。
しかも全国統一のフォーマットはないので、父が暮らしていたと思われる自治体に一つずつ申請方法を問い合わせ、いちいち別の文書を作成しなければいけないという不合理を強いられた。
さらに言えば、当時は郵送でのやりとりという方法しかなく、役所から返信が届くまでに早くても1週間はかかる。作業は遅々として進まなかった。