最近のメジャーリーグは「野球のやり方」が大きく変わってきた……と思っている人は少なくないのではないだろうか。
根っからのMLBファンだけではない。大谷翔平(ドジャース)の大活躍でメジャー中継を見始めた人も、大谷をはじめとする選手ちが試合中にタブレットを覗き込む機会の多いことに気付いたはずだ。打席に入ろうとした時に相手チームがピッチャーを交代すれば、一度ベンチに引き返して通訳やチームメイトの差し出すタブレットを確認するような姿も見られる。
もちろんタブレットには、相手投手のデータが示されている。初球の球種は? ファストボール(速球)を投げる確率は? 変化球は? コースは? 決め球は? そのコースは? さまざまな確率が、過去の多くのデータから割り出されている……というだけではない。それでは過去にスコアラーたちが集めてきたデータとさほど変わらないからだ。
最近の「野球のやり方」では、相手投手の投げるすべてのデータ、それに対応したバッターの打撃の結果のすべてを集め、それをAIが分析。このピッチャーの投げる初球にはどのように対応すればよいか? 初球がボールだったり、あるいはファウルで2球目に移った場合は、どんな球種とコースを待てばいいのか?……といった「指示」まで与えてくれるのだ。
いわば技術革新の賜物だが、ここまで進化する以前の野球はもちろんAIに頼らず、各選手がが自分で考えていた。かつて監督としてデータ野球を実践した野村克也氏に、現役選手時代にホームラン打者として大活躍したことについて、「バッティングの極意」を聞いたことがある。
彼は「分かりやすく言えば」と前置きしたうえで、「ヤマハリ(山張り)ですよ」と断言した。
「ピッチャーは140キロを超す速さでボールを投げる。打者との距離は18m(正確には18.44m)。100分の1秒以内に飛んでくるボールを見て、コースや球種を判断して打ち返すなんてことは不可能で、投球が内角に来るか外角に来るかを決めて待つ。または速球か変化球かを決めて待つ。わかりやすく言えば“ヤマを張る”わけです。その“ヤマ”は経験によって身に付くもので、王(貞治)だって長嶋(茂雄)だって、内角か外角か、速球か変化球か、どっちかに備えてバットを振っていたはずですよ」
長嶋は現役時代のバッティングも、監督時代の采配も「カン(勘)ピュータ」などと言われたが、それは「経験の蓄積」、今の言葉で言えば「ビッグデータ」を自ら身に付けていたと言えるものだったに違いない。
その「勘」については、V9巨人の大監督川上哲治氏も、次のように語っていた。
「勝負勘とか、打撃勘とか、野球は”勘”を働かせることが多い。”勘”とは”甚だしい力”のこと。”ヤマカン”、”当てずっぽう”ではなく、訓練で身に付ける”甚だしい力”のことです」
そういえばV9巨人で川上監督を支えた名参謀・牧野茂氏も、ヘッドコーチ時代には三塁コーチャーズボックスから、相手チームの投手が振りかぶってモーションを始めた瞬間、大声でバッターに向かって「真っ直ぐ!」「ストレート!」などと何度も叫んでいた。牧野氏に、「あれはキャッチャーのサインを盗んでいたのですか?」と訊いたことがあった。すると牧野氏は、笑いながらこう答えた。
「相手チームも、そう疑ってくれると嬉しいね。でも、ピッチャーの投げる球種ってのは5割以上がストレート。それだけのことだよ」
牧野氏の言葉が、100%本音なのかどうかは怪しい(笑)。だが、牧野氏と評論家時代に深く交流させてもらった私は、彼から野球について多くを教わった。藤田巨人のヘッドコーチを務めていた時には、宮崎キャンプで面白い出来事に立ち会った。
夕食が終わったあとに、「ちょっと部屋に来てよ。面白いものを見せてあげる」と言われたので、彼の泊まっていたホテルの和室に行くと、大きな和卓が中央にある部屋の端に、4つのミカン箱が積み上げてあった。
牧野氏は「みんな空箱だ」と言いながら、一番上の箱の蓋を開けて1枚の紙を入れた。その紙は1980年代当時のコンピュータがデータを打ち出す時に使う、両端に丸い穴が並んだ紙で、牧野氏はその紙の一部分が外にはみ出て垂れ下がるように置いた。
しばらくすると、巨人番の記者たちが次々と10人近く集まってきて、牧野ヘッドコーチとの懇談が始まった。が、記者たちは、ミカン箱から少しだけ垂れ下がったコンピュータ用紙が気になってしかたない。
とうとう某記者から「あれは?」と質問が飛び、牧野氏は「おっと、まずいまずい」と言いながら立ち上がって、その紙をミカン箱の中に入れて蓋をしたのだった。すると数日後のスポーツ新聞には、「牧野ヘッド、コンピュータ大作戦」「秘密兵器始動!」の文字が並んでいた。
牧野氏に「コンピュータと野球の関係」について訊くと、こんな答えが返ってきた。
「あれは単なるカルキュレーター(計算機)に過ぎない。データを早くまとめることはできても、そのデータをスクリーニング(分析)するのは人間だ。コンピュータが野球をやるわけじゃない」
そう言って牧野氏は「俺の使ってるのはこれだけだよ」と言って、読売新聞社の記者が取材で使っている小さな縦長のメモ帳を見せてくれた。「これを1シーズンに3冊くらい使うかな……」。そんな牧野氏が今も存命で、メジャーの「ビッグデータ&AIベースボール」を知ったら、何と言うだろうか?
かつてイチロー選手は、引退を発表した時の記者会見でこう語った。
「(MLBは)頭を使わなくても出来てしまう野球になりつつある……」
……ということは、タブレットを覗き込んだあと、見事なバッティングを何度も見せた大谷は、ビッグデータを分析したAIの「意志」を、現実の世界で見事に実践したアバターと言えるのだろうか?
いや、アバターというのは仮想現実の空間での存在であり、リアルの世界でのリアルの肉体を使ったパフォーマンスは、やはりアバターとは言えず、彼はAIの提示するデータを的確に理解し、実践するために、「昔」とは異なる「野球脳」の使い方をしているに違いない……。
文●玉木正之
【著者プロフィール】
たまき・まさゆき。1952年生まれ。東京大学教養学部中退。在学中から東京新聞、雑誌『GORO』『平凡パンチ』などで執筆を開始。日本で初めてスポーツライターを名乗る。現在の肩書きは、スポーツ文化評論家・音楽評論家。日本経済新聞や雑誌『ZAITEN』『スポーツゴジラ』等で執筆活動を続け、BSフジ『プライムニュース』等でコメンテーターとして出演。主な書籍は『スポーツは何か』(講談社現代新書)『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂)など。訳書にR・ホワイティング『和を以て日本となす』(角川文庫)ほか。