フレディ・マーキュリー、ウォッカの力を借りて挑んだ死の直前のレコーディング…「波乱万丈だし、馬鹿でかい問題も抱えていたけど…」死を受け入れながら過ごした日々

1991年11月24日、クイーンのフレディ・マーキュリーは45歳という若さで亡くなった。自分の死を受け入れた、ロック史に残る偉大なヴォーカリストの人生最後の瞬間はどうだったのか…。

静穏な場所に安らぎを求めているかのような、フレディ人生最後の年

1986年10月。英国のマスコミは、人気ロックバンドのクイーンのヴォーカリストであるフレディ・マーキュリーが、ロンドン・ハーレー街(上流階級の住宅地区)の診療所で、HIVの血液検査を受けたと報じた。

当時、日刊タブロイド新聞「ザ・サン」のリポーターが、日本から戻って来たばかりのフレディにヒースロー空港でインタビューしたが、このときフレディは病気を否定した。

パートナーのジム・ハットンは、フレディのエイズ感染について「彼は1987年4月の後半には感染を認識していた」という発言を残している。

本人は対外的には噂を否定していたものの、英国のマスコミは1990年頃から、フレディの痩せこけた姿、クイーンのツアーへの不参加などから、エイズに感染しているのではないかと盛んに報じた。

フレディが生前最後のステージに立ったのは、1990年2月18日にドミニオン劇場で行われたブリット・アワードの授賞式だった。

ちょうどその頃、クイーンのメンバーたちは14枚目のオリジナルアルバム『Innuendo』のレコーディングのため、スイスのモントルーにあるマウンテンスタジオに集結していた。

人生最後の年。マスコミに追いかけ回されていたフレディは、体調の許す限り、何度もスイスに滞在した。

ゆっくりとレコーディングを進めるその姿は、静穏な場所に安らぎを求めているかのようだった。

新作のミュージックビデオのアニメーションを担当することとなった、フレディの大学時代の友人であるジェリー・ヒバートは振り返る。

「打ち合わせの時にマネージャーのジムに聞いたんだ。やはり病気で映像は無理だからアニメーションにするのか?ってね。そしたらジムは僕にフレディの病気に関してキッパリ否定したんだ。フレディの意思で徹底していたのかもしれない」

フレディ存命中に発表されたクイーン最後のスタジオアルバム『Innuendo』は、1991年2月にリリースされると、イギリス、スイス、イタリア、ドイツ、オランダで1位を記録し、アメリカではゴールドディスクを獲得。

シングルカットされたタイトル曲『Innuendo』は、フレディに関してマスコミが騒ぎ立てる中、バンドにとって1981年以来となる英国チャート首位を記録した。

続くセカンドシングル『I’m Going Slightly Mad(狂気への序曲)』のミュージックビデオでは、痛ましく痩せ細り、厚化粧をしたフレディが道化師を演じている。

『Queen – I’m Going Slightly Mad (Official Video)』。Queen Officialより

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「素晴らしい人生を送ることができて悔いはないよ」

1991年春。もう時間との闘いで、非情な使命を帯びていたクイーンのメンバーたちは、再びスイスのマウンテンスタジオに戻ると、新作アルバム『Made in Heaven』の制作に着手した。

本作はフレディの死後4年経ってからリリースされ、全世界で2000万枚以上の売り上げを記録。クイーンのスタジオアルバムとしては、最大のヒット作となる。

レコーディング中、フレディは力尽きつつあっても、ウォッカの力を借りながら、何とか長時間の過酷な作業に励んだという。メンバーのブライアン・メイは、当時の様子を憶えていた。

「奇跡が起きるだろうと心のどこかで思っていたよ。スタジオにいたみんなが同じ気持ちだったんじゃないかな」

長年にわたってフレディの秘書を務めたピーター ・フリーストーンも、こんな発言を残している。

「辛く悲しい日々だったけれど、フレディは気落ちしていなかった。自分が死ぬんだということを事実として受け入れていた。凄いことだと思う。だけど、年老いたフレディ・マーキュリーなんて想像つくかい?」

1991年6月、クイーンとの仕事を終えた後、フレディはケンジントンの自宅に戻った。

死期が近づくにつれ、フレディの視力は衰え始めた。容体は急速に悪化し、ついにはベッドから出られなくなった。やがてフレディは薬の服用を止め、死と向き合う決断を自ら下した。

最後の週には、フレディの担当医で友人のゴードン・アトキンソン医師が、毎日家に訪れた。

フレディの運転手だったテリー・ギディングスも、雇い主はもう何処へも出かけないと分かっていても、彼の家で毎日待機していた。

メンバーたちもお見舞いに訪れた。死の数日前には、両親と妹、その子供たちがフレディに会いに来た。フレディの部屋で、みんなでお茶をして、穏やかなひとときを過ごしたという。

秘書のピーターは、その時の様子を回想録に記している。

「人並み外れた精神力で、フレディは数時間みんなの相手をすることができた。まだみんなを守ろうとして、何も心配することはないと思い込ませようとしていたんだ」

1991年11月24日の夜、フレディはケンジントンの自宅で死去。45歳という若さだった。

死因はエイズによる気管支肺炎。フレディ・マーキュリーの死を伝える報道は、11月25日の午前中に新聞とテレビによって報じられた。フレディの遺言により、遺体は遺族により火葬されて散骨された。

「波乱万丈だし、馬鹿でかい問題も抱えていたけど、でも素晴らしい人生を送ることができて悔いはないよ。やだなぁ、これじゃエディット・ピアフだね」(フレディ・マーキュリー)

文/佐々木モトアキ 編集/TAP the POP サムネイル/『メイド・イン・ヘヴン [紙ジャケット仕様] [SHM-CD]』(2024年8月21日発売、UNIVERSAL MUSIC)

引用元・参考文献
『フレディ・マーキュリー~孤独な道化~』(レスリー・アン・ジョーンズ(著)岩木貴子(翻訳)/ヤマハミュージックメディア)